入学前読後レポート(4)

学生たちこんなことしてます! 2010/02/05

すぐれた読後レポートを掲載します。青字は引用、赤字は訂正及びコメントです。

『妖怪学新考ー妖怪からみる日本人の心ー』 読後レポート
K.Y

著者は本書を通して、様々な角度から妖怪について述べているが、第二部では特に神霊的存在について触れている。柳田國男は、妖怪について神霊の零落したものと定義しているが、この思想は『古事記』『日本書紀』の事例などによって不確かなもの、また、覆されるべきものなのだと分かった(主語が抜けている)。しかし、神霊から妖怪へ没落するものもあったように、日本では神霊、妖怪、魔の上昇没落が見受けられる。この神霊的存在が、神なのか、妖怪なのかを判断する際、日本人は自分にとってプラス価値か、マイナス価値かを問うのだ。神霊的存在は人間の意識を介して、初めて妖怪や神と認識される。そして、認識された結果によって、退治、祀り棄て、祀り上げの行為を行う。また、日本人は退治を行った後に、その神霊を祀りあげる。こういった行為は日本独特のもので、キリスト教には存在しない。キリスト教の場合、神と悪魔の位置関係は絶対的なもので、入れ替わることもなければ交わることもない。よって、祀るという行為も存在しないらしい。こういうことから、日本人はおそらく、昔から妖怪や神に対して、様々な恐れの感情を抱いていたことが伺える。また、キリスト教と比較すると、日本の民俗社会は多様性に満ちており、霊的存在も自由性と可変性に富んでいると言えるだろう。
(行をツメルor小見出しを付ける)人間が妖怪化する現象は、人間の妖怪化した心が姿に現れた、究極の形だとある(どこにあるのか?主語は?例えば、「と、著者は主張する」を最後に付ける)。この際に、人々の関心は妖怪化した人間の姿に向けられるが、重要視すべきなのは、妖怪化した心であり、そしてその心に潜む邪悪な感情が反社会的行為に導く。この行為の中で最も邪悪なものが呪詛なのだ。本書では呪詛とは
「一定の所作や言葉によって超自然的な力や存在に働きかけ、憎むべき敵を殺したり病気にしたりしようとする行為で、文化人類学では「邪術」と呼びならわしている。(p193)」
とある。このように、呪詛は一見すると悪質なものであるが、全てがそうなのではなく、中には社会的なものもある。この例が呪詛の方法が詳しく書かれていることでも知られる『古事記』のシタビオトコの呪詛譚である。
 (行をツメルor小見出しを付ける)
呪詛には主に、藁人形などを用いた形と動物霊の憑依、所謂憑き物信仰の形がある。
平安時代には特に、生霊や死霊などの憑依による事件が多発し、呪詛がなされていたが、現代においてもなされている地域もある。本書では、小松氏(著者)が実際に調査した高知県物部村の例が書かれ(紹介され)ている。
「この地方では「呪詛」のことを「因縁調伏」とか「呪い調伏」と呼ぶのが一般的である。呪詛するには、土地の祈祷師に依頼する場合と自分で行う場合とがあり、普通の村人が自分の村人が自分で行う「呪い調伏」は、通常、敵に見立てた藁人形や敵の写っている写真を手に入れて、それに針や釘を刺し、敵をそれと同じ運命に遭わせようとする邪術と、「イヌガミ」(犬神)とか「ナガナワ」(長縄)とか「サルガミ」(猿神)などの特定の動物霊を操作して、それを敵に憑依させて苦しめるという邪術、の二つのタイプがみとめられる。(p196)」(行をツメルor小見出しを付ける)
このように、現代でもなおこういった呪詛が行われているのはとても興味深い。特に憑きもの信仰には長い歴史があるようで、奥深さを感じる。憑きものによる呪詛は、憑きもの筋の者が相手に憑きものを送り込んで憑依させるものと、主人の憎悪を察した動物霊が、勝手に相手に憑依してしまうという、二つの考えられかたがあるようだ。後者の場合、憑かれる方も厄介極まりないが、主人自身も厄介だと思う。しかし、憑きものの性質上、仕方のないことなのだろう。(学術的なレポートにこのような短絡的、主観的な感想を入れない。)憑きものの性質によって、存在だけで裕福になる場合、十分に祭祀しなければその家に災厄を与える場合もある。こういった憑きもの信仰を生み出したのは、日本の社会そのものであり、憑きもの筋の者に対する差別などがあることには嫌悪感を感じる(感を二重に使用)。しかし、それが人間が歩んできた歴史なのだから、受け入れざるを得ないし、(学術的なレポートにこのような短絡的、主観的な感想を入れない。)そこから学びとれるものは数多くあるはずだ。
(行をツメルor小見出しを付ける)「生霊憑き」と「動物霊憑き」の違いについて著者は以下のように述べている。
「私自身は、憑依する霊すべてがある意味で「憑くもの(・・)」なので、こうした紛らわしい概念を使用することに疑問をもっている(p206)」
(一マスアケル)ここで言う動物霊憑きとははっきりとした形をもったもので、対して生霊は形をもたない。だから動物霊憑きの場合は、憑きものという呼び方ではなく、わざわざ「動物霊憑き」と表記するのだろう。こういうところからも、人間は視覚的に物事を把握する傾向があると思える。生霊にしろ動物霊にしろ、霊が憑くことに変わりはないので、著者がそう考えるのも確かなことだと思う。
(行をツメルor小見出しを付ける)憑きものや呪詛の歴史を遡る上で、蟲毒についても触れる必要がある。蟲毒とは
「各種の動物を一つの容器のなかに閉じ込め、共食いさせて、最後まで生き残ったものを邪術(呪詛などに)に用いるというもの(p210)」
である。また、(追い込む=改行しない)
「中国では「蟲」から製造された呪薬(=毒)を敵の井戸や飲食物に混入させて危害を加えようとする観念もあったらしいが、日本の「憑きもの」が動物の魂魄を敵に憑依させて病気にするという観念に基づいているところから推測すると、古代日本の「蟲毒」もその種のものであったのかもしれない。(p211)」(著者に統一)も述べているとおり、憑きものの歴史は大変長いものであり解明が困難なものである。私は憑きものについて興味を持っているので、機会があれば蟲毒についても調べてみたいと思う。
(行をツメルor小見出しを付ける)異界とは時間的、空間的にあらゆる意味で、私たちの日常とはかけ離れているものであり、妖怪や魔の多くがそこで現れる。宮崎駿作品の『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』においても、人間の世界(現世)と神々の世界(異界)という、異界の世界観は物語の中で重要な役割を果たしているように思う。
(一マスアケル)『民話の地理学』の著者、佐々木高弘氏はこの話を通じて、人と場所の関係性についても述べている。千尋が神々の世界で、新たな人間関係、社会関係を築くというのは、現実世界に戻った時のための修行であったようにも考えられる。また、『もののけ姫』では神々の世界へ介入する人間と、人間の世界へ介入する神々など それぞれの領域への侵入、それによる秩序の乱れも一つのテーマとなっていたはずだ。
(行をツメルor小見出しを付ける)
「昼は日常的世界であった空間が、夜になると非日常的な異界、妖怪空間となる(p232)」
とあるように、現世と異界の境界線というのは、その時々によって変わるあやふやなものである。
『千と千尋の神隠し』では、日が暮れるまでは妖怪は存在せず、夜になって妖怪、神々は出現した。そして『もののけ姫』でもシシ神は夜になると姿を変え、デイダラボッチと化す。闇アニメ映画にのみならず、私たちの日常世界においても、闇(夜)は計り知れないもので、風景、景色などあらゆるものが姿を変え、不気味に感じ、恐怖の対象であるのだろう。
(行をツメルor小見出しを付ける)
 「「妖怪」や「魔」を創り出すのは人間社会である。(p236)」
とあるように、神霊的存在はあったかもしれないが、妖怪や魔は人間がいて初めて存在する。だから、闇や神霊的存在は本来は恐怖の対象ではなかったはずだ。妖怪や魔を生み出したのは人間の心である。
「妖怪や魔の問題は、怨み・憎しみ・妬みといった人間の心の問題に置き換えられる(p238)」妖怪や魔を知ることは、私たち人間を知ることにつながる。本書を読んで、時代は違えど人間の本質は今も昔もさほど変わりはないのかもしれない、と思った。だから、これから民俗学を通して、人間の心を見つめなおすこともできればいいと思う。

全体評価:全体的には良くできています。指摘された点を留意して、次のレポートも頑張って下さい。
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