スポンサーサイト

スポンサー広告 --/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| FC2 Blog Ranking

吉村亨文選(5)

教員紹介 2009/07/27

義経と聖域「吉野」
―その虚実と転成のトポス―(5)

 蔵王堂の傍らに「みちびき稲荷」と称する小さな神祠があります。『吉野拾遺』という書物に、この神祠の由来が書かれている。それによりますと、幽閉されていた京都の花山院を脱出して吉野に潜行する後醍醐天皇の一行を、伏見稲荷社の山上に立った雲がその行く手を照らし導いたというのですね。『太平記』にも同じ場面がありますが、『吉野拾遺』は「臨行の道を照らし送りて、大和のうぢ山にいらせたまへば、雲はかねのみだけ(金峯山)のうへにて消えうせにけり」と表現している。興味深いのは「大和のうぢ山」を越えたとたん雲が風にかき消されて吉野に入ることができた、というところだと思うのです。
 「大和のうぢ山」の「うぢ」は「ウチ(内)」を意味している。この境界認識としての「内」と「外」の問題を吉野という地域とクロスして考える必要があるんじゃないか。吉野からみた場合、吉野川の向こうには旧都の奈良があり、「大和」というのは、この旧都勢力の内側、「うぢ山」はその境域で吉野川は境界線である。これを通過すれば南都勢力の後背地としての修験の聖域吉野に入る。そうした認識が存在したのではないか。
 「宇治」といえば、すぐに思いだすのが山城国の宇治および京都と奈良の境界線としての機能を有した宇治川です。かつてこの宇治という地域は、大和政権の権威の北限でもあり、畿内の「内」と考えられたこともあった。平安京造営以前に山城国を山の後背地、つまり「山背」としていた時代のことですが、平安京以後、中世にかけてまで宇治を京都と奈良の境界域とし、宇治川をその境界線とみる意識は残っている。
 こうした内と外という認識世界から見た場合、「大和のうぢ山」までが南都の勢力域で、吉野川はまさにその境界線、これを越えた吉野という地域は、南都勢力とて修験世界ゆえに容易に手をつけられない聖域、しかも南都に最も近い外縁部ということになります。遠すぎてもだめです。京都に対抗しうる奈良に近くて、しかも南都勢力とて容易に直接介入できない領域、それが吉野に与えられた重要な歴史環境だと考えて良いのではないでしょうか。
 ここに前代以来の「聖地吉野」という風土が重なってくる。こうした環境のなかでこそ「転成」することが可能と考えたのです。『義経記』にとって、義経の没落を描く格好の場所、そうした歴史環境をもつトポスとしての吉野であった。義経がめざましく活躍したのはわずかに一年余り、あとは行くえがわからない四年余り。その始まりが吉野である。単なる武勇談に終わるのではなく、後半生の弱々しい義経、流離・放浪し数奇な運命に流されていく義経に涙せずにはおられない状況に転換させていく、その転換の主要な舞台となったのが吉野であった。
 吉野がもつこうした風土なり環境を巧みに利用した文学作品に『とりかえばや物語』というのがあります。成立は一一世紀の半ば頃。ちょうど義経が生きていた時代の成立になります。「とりかえばや」とは「取りかわりたい」という願望を表したもので、男と女を転換させるという稀有な物語作品です。姉と弟の設定のなか、姉が男に、弟が女として育てられ成長していくのですが、宮仕えや結婚・出産など、様々な不都合が生じてくる。どうしようもなくなった段階で、物語は一挙にこの姉弟の性的役割を転換させて問題を解決してしまうのですが、興味深いのは、その転換の場として設定されたのが、宇治と吉野であったということです。
 まず姉が宇治で女に戻ります。一方、弟のほうは吉野で男に返るのですが、もっとすごいのは、吉野という場所で、両者の人生経験や役割、性格までが入れ変わってしまう。吉野という地域が、まさに変換の場所、完全なる転成のトポスとして設定されていると言ってもいいでしょう。歴史的領域としての吉野を考える場合、たしかに聖地としてのありかたも重要なのですが、もうひとつ、この「転成」というキーワードを加味すべきではないか。「とりかえばや」として生まれ変わり入れ変わってしまえるトポスとしての吉野、その歴史的環境や時代的認識にも注目してみるべきではないのか、そのように思うのです。
 義経の場合、転成した後の人生をいかに涙するものに仕立てるか。その弱々しい薄幸な後半生をたどるうえで、対比的ともいえる役割を演じたのが、男装をして舞う白拍子の静と、猛者な山伏弁慶であった。義経像がガラッと変わる場が吉野であれば、新たな登場人物に静と弁慶を持ってきたところに『義経記』の文学性がある。作者が『とりかえばや物語』を読んでいたかどうかは分かりませんが、少なくとも、作者自身に転成のトポスとしての吉野が自覚され意識されていたと見ることも可能ではないか。
 今日は、こうした吉野の見方もあるんじゃないかということを結論として話しました。義経については、虚構と実像がきわめて複雑に交差して人物像が語られる。そのひとつひとつを確実に検証することは今の私にはできませんが、吉野という地域がもつ独自の歴史的環境や風土といったものの上に、主として『義経記』などで語られる義経像を置いてみるとどうなるか。結果として、今までとは少し違った「聖域」吉野の地域像が提示できたんじゃないかと思います。「転成のトポス」という考え方が当をえたものかどうか、多くのご批判をお願いして今回の講演を終わらせていただきます。

(付記)本稿は、1995年8月26日に吉野町芳雲館で開催された「第33回吉野町観光文化講座」での講演(原題『義経と吉野―その虚構と実像―』)記録をベースにしたものである。本学紀要へ掲載するにあたり、大幅な補筆・修正を加え、削除した箇所も多いが、全体の要旨は損なっていないと思う。掲載を快く御承諾いただいた吉野町、とりわけ講演前に現地を案内していただいた池田氏をはじめとする方々に、あらためて厚く御礼を申し述べておきたい。「京都文化短期大学紀要」第26号、京都文化短期大学学会、1997.3、掲載
スポンサーサイト
| FC2 Blog Ranking
| HOME |
09 | 2017/10 | 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

OTHERS

TAG


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。