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吉村亨文選(4)

教員紹介 2009/07/26

義経と聖域「吉野」
―その虚実と転成のトポス―(4)

 義経が頼朝追討の宣旨を得たというのは、常識的にみても謀反です。それに対して、頼朝軍は、今は敵となった義経討伐の軍勢を差し向けるわけですが、義経はさほどの抵抗もせずにあっさりと逃げる。西の海、九州、四国をめざして逃げていく。その逃げ方はきれいだけれど、一戦交えようという気迫はほとんど伺えないのです。確かに摂津の川尻で小規模な合戦があったようですが、ほとんど戦わないで西の海に出てしまう。そして、尼崎に近い大物の浦で折からの暴風に煽られ、一行の舟が転覆してしまいます。淡路島に逃げたとも言われますが、和泉の浦についたというのが事実に近いでしょう。そこから義経は吉野入りするわけです。
 先程ピリオドを打つと言いましたが、西国に落ちるあたりからの義経は、『義経記』を読むかぎり、軟弱さが目立って仕方がない。全くのやさ男なのです。もちろん物語の世界ですが、たとえば多くの愛妾を一つの舟に乗せて逃げようとする。最終的には静一人が残る。敗者として、これから逃亡を続ける義経にとって、身近に配するには最もふさわしい愛妾が静であった。
 この段階で重要なことは、義経を取り巻く連中に一つの変化が起こっていることです。静御前は白拍子、今でいう遊女です。当時の遊女は男舞いをします。男装で舞い、見ばえも男っぽい。吉野という場所の問題を考える上で、後で話しますように、返送すれば男にさえみえる静を大々的に登場させてくる、そこに物語としての意味があるわけです。
 義経のイメージは日増しに弱々しく、優しくなっていく。もう一人、ここで新たに登場するのが猛者の風貌をもった武蔵坊弁慶です。弁慶は『平家物語』で平家攻めにも登場するのですが、『吾妻鏡』では、この段階で初めて登場します。猛者なる武者(ムサ)にも通じる弁慶の登場は、これからの義経の逃避行、つまり義経をめぐる女々しく悲しい物語を逆の側面で補強する、対比的な役割を演じることになります。
 ところで、和泉から吉野への道については、今も様々な伝説が残されています。たとえば、かつて役行者が葛城山から吉野に橋をかけたという話、これも伝説世界のことですが、義経と吉野との関係でいえば、その逃走経路を推測するうえでは興味深い素材のひとつといえるでしょう。
 吉野の蔵王堂に蓮華会という行事があります。例年七月に催されるこの行事では、奈良県高田市の弁天社蓮池で採取した蓮の花が蔵王堂に供えられるのですが、その蓮の花を運ぶ吉野への宗教的な道がある。義経の一行が和泉からどういう道をたどったのかは不明ですが、葛城山を越え、山伏をはじめとする行者たちが利用した行者道、これが蓮華会にもかかわりのある道ですが、弁慶に先導された義経の一行が、この山伏の道を通って吉野入りを果たした可能性は十分に考えられていいと思います。
 道のことはこれぐらいにしておいて、それではなぜ義経は吉野に来たのか。義経にとって、あるいは彼の悲運な後半生を物語る作者にとって、吉野とはどういった場所であったのか。このあたりのことを次に考えてみたい。
 蓮華会にともなって蔵王堂で演じられる行事の一つに、「蛙跳び」というものがあります。この由来は、吉野という地域の性格を考えるうえで極めて興味深い。白河天皇の頃、今、お話している時代からみて約百年ほど前のことなんですが、ある傲慢な男が修行中に大きな鷹にさらわれ、絶壁で助けを求めているところを、一人の高僧に助けられる。しかし、その傲慢さゆえに人間の姿で助けるわけにいかないということで、その僧侶は男を蛙の姿に変えて吉野に連れ帰り、蔵王堂で僧侶たちの読経の力によって人間の姿に戻してやったという由緒が語られています。もう一つ、江戸時代の話ですが、四人の僧侶に祈り殺されてしまった蛙が、湯水をかけられて蘇生したという、蘇生譚もあります。そういう話が蓮華会にまつわっている。
 蓮華会という行事は、大和の当麻寺、京都の鞍馬寺にもあります。鞍馬寺の場合は、竹割りの行事が有名で、その竹は蛇に見立てられている。何かそのあたりに、姿を変えるムード、転成願望とでもいうべき雰囲気が漂っている。中世という時代には、転成を望む意識が想像以上に強かったのではないかと思いますし、さらに言えば、そうした転成が可能となる特定の場所、吉野や鞍馬といった固有の環境をもったトポス(場所)としての社会認識が存在したのではないか。だからこそ、逃走する義経には、かつての武勲勇ましい姿はすでに無く、とくに吉野に導かれた義経は女々しいとさえ言えるような人物像に変わり果てている。吉野という聖域に、なんとなくこうした歴史的な環境を感じて仕方がないのです。義経という人物像との関わりのなかで、我々はこうした地域の特異性というものをも考えておくべきではないかと思います。
 吉野といえば、必ず引き合いに出されるのが壬申の乱です。大海人皇子も吉野に逃げてきている。そうした天皇家との関わりにおいても吉野は「聖地」とされるわけですが、聖地という言葉だけで吉野を理解しすぎてはいないのか。もう一歩つき進んで吉野という地域のあり方を考え直せないか。たとえば、様々な人々が吉野に逃げてくるのですが、その場合、いったん仏門に入ってから吉野に来ることが多い。つまり、人生の一つの結界を越えて特別な領域としての吉野にやって来るのです。ここが大切ではないか。
 壬申の乱以来、吉野は聖地となった。平安時代には、川の吉野から山の吉野へ、つまり宗教的修験の聖域としての変換を遂げていくわけですが、それでもなぜ、一つの時代の転換点で、時代を担う人物が吉野に逃げ込むのか。確かに背景としての山の道を考えると、吉野は東西南北の交通の要衝であると言えるのですが、どうもこれだけでは納得できない。もう少し考えてみたいと思います。
つづく
 
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