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吉村亨文選(3)

教員紹介 2009/07/25

義経と聖域「吉野」
―その虚実と転成のトポス―(3)

 この時代の基本的文献として『吾妻鏡』という鎌倉幕府の記録があります。編纂ものとしての性格上、記載内容がどこまで信用できるのか、十分に配慮しながらこの史料を使わなければならないのですが、この公的記録『吾妻鏡』でも、義経の姿は明瞭に記載されていない。鞍馬山を出た義経はどこへ行ったのか。本来ならば、まっすぐに兄頼朝に会いに行くべきであったのかもしれない。けれども、それだけの見識がなかったのか、そうした条件がなかったのか、『吾妻鏡』による限り、義経は頼朝に会うことなく奥州に行っている。頼朝に初めて会うのは、この後なんですね。奥州平泉といえば、源頼義・義家以来、源氏ゆかりの地ですが、この時期の奥州はちょっと条件が違います。富強をもって聞こえた奥州藤原氏は、東国平定をめざす頼朝にとっては厄介な存在であったし、また、父義朝を敗者とする平治の乱を招いた藤原信頼の兄とか弟とかいわれる基成が奥州の平泉に流されていた。
 こうした状況を知っていたかどうか分かりませんが、鞍馬を出た義経は、頼朝に会うこともなく先ず奥州に行った。これは結果論ですが、はるばる平泉から義経が会いにきたといっても、頼朝としては警戒せざるを得ない。気にいらないですよね。義経と顔をあわせたものの、さほど感激もしなかったと言われていますが、当然のことかもしれません。
 義経との再会、普通でいえば感動的な場面と言えるのですが、頼朝としては義経を特別扱いをするつもりは、初めからなかった。義経を居候同様に遇する。父義朝の愛妾の子であったとはいえ、義経も父の血を引いている。しかし、義経の言動の中から一度たりとも貴種という言葉は現れません。というより、義経には、そうした自覚はなかったし、一般の人々も、そうした眼で義経を見ていなかった。実際、ほとんどの人たちが、義経という人物を知らなかった。当時、政界のなかで重きをなした公家に九条兼実という人がいて、『玉葉』という日記を書き残していますが、それを見ましても、義経が現れた時、一体何者なんだとする世間一般の見方があると書きとどめています。あの『平家物語』ですら、義経のことを決して良くは言ってない。木曾義仲に比べると京慣れてはいるけれども、平家の中の襟屑よりも劣るとまで言わせている。解釈はいろいろありますが、義経の中には貴種意識がほとんど見られないと捉えている。
 少し乱暴な言い方になりますが、義経に付き従う人々も尋常ではない。弁慶や静にしても、訳のわからん人物ですし、彼らには、ある種の共通したイメージさえあります。たとえば武蔵坊弁慶。和歌森太郎さんは、「武蔵坊」には「むさ苦しい」という意味が含まれていたと言われています。弁慶は比叡山で修行していた山伏だったようですが、出自はよくわからない。このほか、宇治川合戦から壇ノ浦の戦いにかけて大いに活躍する伊勢三郎は、鈴鹿山の山賊だと考えられている。佐藤兄弟も、義経が平泉から頼朝に会いに来る時に、奥州藤原氏が付けてよこした下級の武士にすぎない。伝説的な人物だと言われる堀弥太郎兼光は商人であったらしい。猟師の出身だともいわれています。
 このように、義経を取り巻く連中には、山伏がいたり盗賊まがいの人間がいたり、商人がいたり猟師がいたり。おしなべて特異な出自の人々であるわけです。当の本人義経についても、由緒正しい北面の武士などではなく、山賊とさえ交わる、意外性を帯びた人物で、放浪と貧困の中で逞しく育った野性の青年であったとさえいえる。そんな義経と彼を取り巻く連中が頼朝に会いに来た。いきなり「兄ちゃん!」と呼ばれた頼朝としては、正直なところ「お前ら、何やそれは」とでも言いたかったのではないか。
 義経は、当時の武士とは明らかに異質な支持者たちに取り巻かれていた。これは極めて重要です。だからこそ、破天荒な、通常でない、戦い方ができたといってよい。実際、義経軍は強かった。「我こそは」と名乗りをあげるのではなく、いきなり横からボカーンと殴る。後ろから襲う。その結果として大いに戦果をあげた。これが義経軍の実態であった。あの「八双飛び」も「ひよどり越え」も。有名な話ですが、大将たるもの先陣を取るべきではないと梶原景時が注意したことがある。義経にはやめられない、血が騒ぐわけです。直感的な、鋭い動物的な神経を持っていたことも生い立ちから考えれば不思議じゃない。
 このように、頼朝と義経には、明らかにズレがあった。頼朝としては、弟とて一人の部下ぐらいにしか考えていないのです。たくさんの部下のなかでも、義経は直感的に合戦の仕方がうまい。戦術に長けている。それくらいの存在だったと考えた方が、両者の関係は理解しやすい。それが、やがては頼朝の不信を買うことになるのです。
 たとえば、あの屋島の戦いで見せた戦術、船の舳にも艫にも櫓を立てて攻撃する「逆櫓」の戦術、義経はそんな常軌を逸した戦い方ができた。ある日、頼朝の直臣として義経軍に参画していた梶原景時に、義経は猪突猛進する猪武者だと酷評される。義経は怒るわけです。この一件をきっかけに、景時は義経を捨てて範頼のものに走ってしまい、大将頼朝に経過を報告する。当時の頼朝としては、地盤を固める微妙な時期に立っていた。頼朝の命令を代弁する景時の忠告に義経は従わない。そういった報告を受けた頼朝は、おそらく動揺が隠せなかったのではないか。頼朝にとっては、義経よりも、さまざまな勲功を積んできた直臣景時のほうが大切です。義経をうまく使いたいと思ってはいても、源氏の棟梁としての自分の範囲を越えて義経が動くことは困るわけです。頼朝のもとには義経のさまざまな勲功が報告されますが、義経は、自分をも含めて部下が優秀だからなし得た勲功だと標榜する。統率者としての頼朝にとっては、そうした義経の言動に神経質にならざるをえないわけです。
 牽制の意味を込めて、頼朝は義経に与えていた領地を没収します。しかし、そうした状況の真意を理解できない義経は、戦果として得た捕虜を連行して、得意満面、鎌倉へやって来るのですが、頼朝は義経の鎌倉入りを許さない。捕虜を酒匂の駅で北条時政に渡した義経は、鎌倉に近い腰越で鎌倉入りが許されるのを待つ。自分としては、一生懸命やっているのに、なぜ兄頼朝に認められないのかが分からない。意識のズレとしか言いようがないわけです。両者の間に大きな溝が深まっていきます。
 鎌倉に入れない義経が、恨みがましい言い訳を述べた嘆願状が例の有名な「腰越状」です。頼朝の処置を悲観した義経は、自分の薄幸な生い立ちから、平家一門を打ち破る勲功、兄頼朝の怒りをこうむったことの以外さ心外さ。そうした心境を縷々と述べる。兄とは「骨肉同胞」の間柄であるはず、それでもあえて平身低頭、下手に出ているのに兄は会ってもくれない。これでは二人の関係は終わりだとさえ言わせている。頼朝は少しもそう思っていないのです。この「腰越状」をきっかけに、両者は急速に離れていき、やがては後白河法皇の策術のなか、義経は頼朝追討の宣旨を手中にし、逆に頼朝の敵として追われることになっていくのです。
 さて、このあたりまでが義経の前半生です。後半生の吉野との関わりを考えるうえで、ここで明確なピリオドを打っておきたい。(つづく
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