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吉村亨文選(2)

教員紹介 2009/07/24

義経と聖域「吉野」
―その虚実と転成のトポス―(2)

 本来なら尊い身分、当時でいえば皇室や藤原氏、あるいは源氏や平家などにかかわる身分であり幸せな生涯を送れるはずなのに、そうじゃない。実に辛い場面に追い込まれてしまい、やがては流離・放浪の旅をする。こういう羽目に陥ってしまう人間に対して、人々は共感し同情していく。一般的に、こうした人生を歩んだ人物にまつわる話を貴種流離譚という言葉で表現しておりますが、そういうところに人々は感傷にひたる。必ずしも日本人だけではないと思いますが、古今の物語を通じて、こうした貴種流離譚には深い同情を呼び覚ますようなものがあります。
 大切なのは、それがさまざまな文芸作品を生み出しながら、日本人の意識の歴史を語る上で大変面白い材料を提供してくれていることです。したがって、これを分析することは、場合によっては、その人物にまつわる文芸などを生みだし受け入れた時代や社会のあり方、あるいはその人物が深く関わった地域の歴史を解きほぐす重要な作業となるのではないか。
 まず、義経の前半生から話を進めていきたいと思います。話のきっかけとしてあげなければならないのは、兄の頼朝と義経の違いということでしょう。これがやがては不幸な結果、同情を誘う後半生への導火線となるわけです。一部に、義経は実在の人物ではないという説もありますが、源義経が実在したことは確かです。ただ義経については、その人物像がさまざまな物語や文芸、見ものや語りものによって作られていく。その過程で流布されたイメージが固定されていく。たとえば、よく言われることですが、頼朝は冷たい人物で、それと裏腹に、同情を寄せた結果として義経は可哀相だということになってしまう。まさに人々は義経贔屓になるわけですね。「判官贔屓」という言葉が出てくるのは江戸時代になってからで、中世の室町時代にはないといわれておりますが、そうした意識や心情はすでに室町時代には存在した。それが熟成されつつ物語文学として大成されてきたのが『義経記』であったわけです。
 流布されたイメージとして、頼朝は明らかに損をし義経は得をしている。頼朝に対する一般の反感とか憎悪とは言わないけれど、義経に対するむごい仕打ちに対するものと裏腹の感じで、そういうイメージが蓄積されている。確かに義経が兄の頼朝を怒らせ、ついには追放されて世を忍ぶ境遇に落ちていく。これはどうやら事実であったらしいのですが、わかりにくい部分がたくさんあります。まずこのあたりを押さえておかねばならないでしょう。
 二人が異母兄弟であったという事実は動かない。けれども、その間には相当な開きがあった。一般的に見て、器量や度量、歴史的な重さとか。比べてみると、かなり大きな開きがある。たとえば出自の問題です。義経と頼朝とでは、母親の格が違う。義経の母親、つまり常磐は、皇后になった藤原定子(九条院)の小間仕として雇われた人です。絶世の美女だったらしい。十六歳の時、源義朝に愛されるようになる。それに比べ、頼朝の母は熱田大神宮の大宮司季範の娘で、身分的にも比較にならない上位クラスです。
 これはどういうことを意味するのか。小間仕の女性と熱田神宮の娘との身分的格差、これに加えて、頼朝は源氏の棟梁義朝とその正妻の嫡男である。当時、嫡子というのは、家督相続の問題も含めて大きな意味を持ち始めていた。世間も頼朝を嫡男として見ますし、そういう育てられ方もする。父義朝を継承する武門の棟梁として育てられ、周囲もそれを認知している。頼朝には、そうした環境があった。実際、父義朝は頼朝の幼少時から大きな期待を寄せていたようで、位の昇進も早い。嫡男頼朝に対する期待感が違う。棟梁としてあるべき活動も一二、三歳からやっていた。義朝が政界から引き落とされる事件、つまり平治の乱において、わずか一三歳にして天っ晴れな戦いぶりをみせる。源氏の継承者として、そういう体験を少年期にしていること、これが頼朝の将来に大きな自信となったにちがいないのです。
 こうした頼朝に比べ、義経には不透明な部分が多すぎる。義経が常磐の懐に抱かれて落ちていくのも事実に近いのでしょうが、義経を取り巻く環境は決して良いとは言い難い。生まれながらにして敗者だったといってもよいし、また、そういう育てられ方がされた。常磐が平家に捕らえられ、美貌ゆえに許されたものの、その子供は義経をも含めて預けの身となる。どうやら彼が鞍馬に入ったところまでは事実であったようです。義経にとって、この鞍馬にいたことが後に大きな意味をもってくる。鞍馬というのは修験の場、山伏の山です。義経と吉野を結びつける複線のひとつがここにもあります。
 義経がどういう容貌の持ち主だったかということでも、いろんな説があります。悪く言う人もよく言う人もあり、いろいろですが、鞍馬に預けられた幼少の義経、つまり牛若丸は、山伏に寵愛されながら育てられていく。当時の山伏というのは大変な情報通で、あちこちの情勢をよく知っている。そのような環境のなかで自分の素性を聞いていたのかどうか、このあたりのことは想像するしか仕方がないのですが、言えることは、牛若丸が、こうした山伏の世界のうちに自分を見いだしていった。そういう環境のなかで幼少期を過ごしたということです。このように、義経の生い立ちは、頼朝とはずいぶん違う。当時、頼朝は伊豆の蛭ヶ小島で生活を送っていた。頼朝の本家としての家柄、源氏の棟梁を継ぐべき立場やその社会的評価は動かない。頼朝と義経の二人が、はじめからぴったりと呼吸が合わないのはあたりまえのことだったのです。(つづく
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