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フィールドワークレポート(1)

学生たちこんなことしてます! 2009/03/10

いよいよフィールドワークレポート第1号を掲載します。入学前に課題を課したものです。高校生とは思えないすぐれたレポートは、上級生も見習ってほしいものです。赤字は教員のコメント、青字は引用です。

「安達ヶ原の鬼婆」伝説について   
TK
黒塚で有名な安達ヶ原の伝説が対象ですが、平安期にすでに昔がたりなので、むしろ文学や演劇の分野で知られ、現代にフィールド調査をするとなると必ずしも期待通りの結果に結びつかないことは当然でしょう。しかし、現地にいって実際に踏査して聞取りをするのは、たしかにフィールドワークの基本として正しい方針です。
1. テーマ設定の理由
この「安達ヶ原の鬼婆」伝説は、「安達原」や「黒塚」というタイトルで、能楽や歌舞伎にもなっているほど有名な伝説であり、また私が住んでいる福島県に伝わる伝説でもある。しかし、それほどに有名な伝説にもかかわらず、私は「安達ヶ原の鬼婆」というタイトル以上のことは知らなかった。そこで、身近に伝わるこの伝説を調べてみようと思ったのである。
テーマ設定から実際のフィールドワーク、さらにその反省までよく整理されており、レポートとしては優秀です。今後に期待します。


2. フィールドワークの結果
フィールドワークということで、私は実際に「安達ヶ原の鬼婆」伝説が伝わっている、「真弓山 観世寺」というお寺を訪ねることにした。このお寺は福島県二本松市にあり、お寺の中には鬼婆が住んだとされる岩屋や、鬼婆が使ったという出刃包丁などの資料がある展示室など、鬼婆伝説に関係するものが数多く残されている。また、山門を出てすぐ右に曲がった先には鬼婆の亡骸を埋葬したという「黒塚」という塚もある。
 まずは、このお寺に伝わる「安達ヶ原の鬼婆」伝説を紹介したいと思う。
 
 京都の公家屋敷に乳母として仕える一人の老婆がいた。その老婆が育てている姫は、喋れない病気にかかっていた。それをどうしても治したいと考え、老婆は治療する方法を探しに旅に出た。そして、あるとき出会った易者から、病気を治すには妊婦の生き胆が必要だと告げられた。老婆はそんな事はとてもできないと思いながら旅を続け、流れ流れて大きな岩を見つけて、そこを住みかとして妊婦が通りかかるのを待った。そして何年かが過ぎたある日、たまたまそこに一組の夫婦がやってきた。女が身ごもっているのを知った老婆は、隙を見て女を殺して生き胆を手に入れたのだが、女の持っていたお守り袋を見ると、それが自分の娘の物で、自分が殺したのは自分の娘だったと気づいた。そして老婆は発狂し、それからは旅人を家に泊めては殺して、その肉を食べるようになった。それから何年か過ぎた神亀3年(西暦726年)のこと、阿闍梨祐慶東光坊という僧がこの岩屋を訪れ、一晩泊めてもらうことになった。夜も更けた頃、薪が尽きてしまったので、老婆は裏山に薪を取りに行こうとするのだが、去り際に東光坊に、奥の部屋は私の寝室のような所だから、決して見てはならない、と何度も念を押した。東光坊は最初のうちは言われたとおりに部屋を覗きはしなかったが、老婆があまりにも釘を刺すものだから、気になってつい部屋を覗いてしまった。すると、部屋の中には人間の死体や骸骨が大量にあり、東光坊は恐れてすぐに荷物をまとめて逃げ出した。帰ってきた鬼婆は東光坊が逃げたことを知り、このことが世間の人に知られたらまずい、と思って、出刃包丁を持つと東光坊を追いかけた。追いつかれそうになった東光坊は、背負っていた笈から如意輪観世音菩薩の仏像に一心に祈ると、像は空高く舞い上がり、破魔の白真弓に金剛の矢を番え、鬼婆を射殺してしまった。東光坊は岩屋のあった所に寺を立てて、鬼婆を射殺した白真弓から、名前を「白真弓 観世寺」とした。そして鬼婆の死体が埋められた所は「黒塚」と呼ばれ、今も残っている。

 上記の伝説は、お寺のご住職から聞かせて頂いた話と、展示室内の資料の内容を合わせたものである。
komatsu1.jpg

 写真1の右半分を占める二つの大きな岩が、鬼婆が住んでいたという岩屋である。ご住職によると、屋根のようになっている岩の、この写真でいうと左の端から斜めに板を立てて、雨風をしのげるようにしていたのだという。
高さは目測で、大体3mから4mほどのようだったので、家のように使うことも可能だとは思うが、実際に人が住めるだけの空間かどうかは、何ともいえない。

komatsu2.jpg

 写真2は鬼婆の死体を埋めたという塚、「黒塚」に建てられた石碑である。写真の石碑には、「みちのくの 安達ヶ原の 黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」という、平安時代の歌人、平兼盛が詠んだ歌が彫られている。
この歌が鬼婆伝説をもとにして詠まれた歌なのか、それとも別に意味があるのかは、観世寺を訪れた限りでは分からなかった。もし機会があれば、歌の意味にも興味があるので調べてみたい。

komatsu3.jpg

写真3は、写真2の石碑がある「黒塚」の写真である。この塚からは鬼婆が使った茶碗や、生き胆を入れたという壷、鬼婆の出刃包丁などが発掘され、それらは観世寺内の展示室に展示されている。
これらの品が実際に鬼婆に使われたものであるかどうかは、私には分からないが、例えば仮に誰かが後で塚に埋めたのであれば、なぜそうしたのかを考える価値はあるだろう。
私は観世寺のご住職からお話を伺った。ご住職がお話の中で強調された部分を、以下に紹介する。
「観音様というのは、お慈悲を持って全てを救う役割で、(この伝説では)その観音様が自ら手を下したということ。それを考えてもらいたい」
「鬼のような残酷なことをするお婆さんだったから、鬼婆と呼ばれるようになった。ただ、こういう気持ちは我々も持っているから、気をつけなければならない」
「(老婆は)初めから悪い人ではなかったが、例え殿様に仕えていたとしても、人を殺すということは、絶対にしてはいけないこと」

ご住職のお話や、伝説の最後に東光坊が一心に仏像に祈ることで助かったことなどから、私は『日本霊異記』に載っているような、仏教に関する話を連想してしまった。私自身は『日本霊異記』を軽く読んだだけなので、言い切ることはできないが、例えば、仏教を信じたために助かったとか、仏教をけなしたから死んだ、といった因果応報の話が『日本霊異記』には沢山あったように記憶している。私にとって、伝説と『日本霊異記』の両者にはどこか似た雰囲気があるように思えた。
『霊異記』と伝説との共通性に関するTK君の考えは、たぶん他の伝説や昔話に接すると変わってくると思います。古代神話や中世のグリム童話などヨーロッパのものにも、教訓性は意外に少なく、日本でも近世(江戸時代)になって話の教訓性が強くなってくる傾向があります。因果応報は古代中世では羽織袴のような礼服で、その下にあるものに興味をもってみるとおもしろくなると思います。

3. 反省
 今回のフィールドワークは、初めてということもあって、不備が多くあったように思う。
・ どのような質問をするのか事前に考える必要があった。実際にその場でいきなり質問すると、自分の聞きたいことが相手にうまく伝わらなかったり、うまく表現できなかったりするので、簡潔でわかりやすい、的確な質問をできるように、事前に推敲しておく必要がある。
・ 準備の段階で、訪問先に電話で問い合わせをする時に、自分の名前だけでなく、相手の名前も聞いておく必要がある。2回、3回と電話をする時に、全て同じ相手が電話を受けるとは限らない。別々の人に話しても、話がかみ合わないので、同じ相手に話す必要がある。
・ メジャーのような、長さを測るものも必要である。例えば今回は鬼婆の岩屋を写真に収めたが、これの高さや幅などを測っておかなかったので、報告の段階で、曖昧にしかこの岩屋の大きさを表現できなかった。
・ 速記の能力もある程度必要である。今回はご住職からのお話の内容をデジタルカメラの録音機能を利用して収録したのだが、後日改めて聞くと、ちゃんと録音はされているのだが、発音がうまく聞き取れなかったり、早口で聞き取れなかったりするので、話の内容を8割ほどは書き取っておく方が、確実だろう。
聞き取り調査で、メジャーや録音器の必要性が課題とされていましたが、その通りです。メジャーは道具類や家の計寸に必需品です。ノートにとるのが実は調査では最善、そのバックアップに録音器が必要。最近はビデオを撮りっぱなしにすることもあります。録音機の欠点は聞き取りと同じ時間がさらに必要なので、最小限にとどめるのですが、うちの専攻にはICボイスレコーダーと優秀なデジタル録音機も備えてあるので、入学後はそれを利用してください。 

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