スポンサーサイト

スポンサー広告 --/--/--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| FC2 Blog Ranking

谷川健一著『日本の神々』読後レポート

学生たちこんなことしてます! 2014/04/13

すぐれた入学前レポートを掲載します。読みやすくするために赤は教員のコメント、青は引用部分としています。実際のレポートでは色分けする必要はありません。

「日本の神々」 R.Y

1.はじめに 章立てしたほうが読みやすい
 この日本でははるか昔よりこの国に住まう神々を崇め、慕ってきた。たとえば太陽の神であり天皇家の氏神である天照大神などが有名であるが、その神々への信仰が始まるよりさらに昔に存在し人々の生活と大自然の中に息づいてきた「小さく」「可畏き」神々がこの日本には存在したのだ。私はその神々に谷川健一著、日本の神々を通じて注目してみようと思う。
2.可畏き神
 まずこの本の著者である谷川は冒頭で「戦後に私が一日本人として心の再建を目指して追い求めてきたのは、国家と等身大の神ではなく、幾多の風雪に耐えて日本の歴史や古い文化を今日に伝えてきた神々である。」(p.ⅱ)と述べ、さらに続けて「それらの「小さく」「可畏き」「」の中の括弧は『』二重括弧に神々がかならずや日本人の根底によこたわる世界観や生死観を解明する手引きになると考えた。」(p.ⅲ)と記している。太古の昔に自分達の先祖が築き、崇め、共に暮らしてきた自然信仰が現代を生きる我々の奥底に眠り、今なお自分達に影響を与え続けている。つまり日本人の心の起源や源流と呼べるものが「小さき」「可畏き」神々を遡ることによって見えてくるのではないだろうか。
 可畏き神々について本書で「日本書紀は、『可畏きもの』の例として虎、狼、蛇を挙げているが、畏怖の情を与えるものはもとより、それにとどまらない。意思もなく、人格もなく空中を浮遊しているような、目に見えない精霊も、「可畏きもの」の仲間であり、それらの中には、格別の意識や悪意のためというわけでなく、人に付着して幸いをもたらすものあれば、害を与えるものもあった。」(p.2)ということである。狼や蛇と言われれば想像はたやすいかも知れないが「空中を浮遊している」「目に見えない」などと言われるとあまりピンとこないかもしれない。それについては本書のp.3に「古代ではカゼは妖怪だと思われていた」と記してある。現代では科学をもって証明できる自然現象も妖怪や神の仕業とされていたのである。考えてみればどこからともなく透明な何かが飛んできて自分の体にあたり通り過ぎていくというのは何も知らない昔の人からしてみれば恐怖かもしれない。このように昔の人では原因がまったく分からない自然現象などに対する畏怖の象徴として誕生した神はかなり多いのではないだろうか。
3.原始的な神の姿
 さて、「可畏きもの」にふれたところで今度は原始的な神の姿についても触れてみようと思う。神の姿というとどうしても何か神々しい後光がさしていて空中に浮いていたりまわりにたくさんの天使が舞っていたりする人の姿をしたものを想像してしまうかもしれないが、太古の日本において神は人の姿をしてすらいないものが多い。それも源流に遡れば遡るほど人の姿をしていない。それについて本書では「原初的なカミは非人格、非意志的であってむしろタマと呼ぶにふさわしいものであった。」(p.26)と語っている。タマというと形自体が存在するのかも怪しくなってくる。強いて形を想像するとおそらくお化け屋敷に出てくるヒトダマみたいなものであるのかもしれない。そうなってくるとむしろ神というより妖精や、精霊などと呼ぶほうが現代の人々にはしっくりくるかもしれない。このタマについて本書ではイナダマというカミについてふれているので、少しこのイナダマについて見てみようと思う。
 奄美にはイナダマを招く行事があるという。その行事については本書は「田袋という広い水田を見下ろす山の中腹に、祭りの前の日に粗末な小屋をこしらえる。小屋は片側屋根の掘っ立てであり、やねには新稲の藁を敷く。新節の日の夜明けに老人から子供まで、その屋根に大勢の男たちがのる。」(p.26)という。その後神役の男二人が屋根の上に立ち田袋にむかって唱え言をする。そして祈り終わった後にみんなで唱え言をしながら一時間近くかかって小屋を揺すりつぶすのだそうだ。この一連の行事をシチャガマといい谷川は「イナダマ(稲魂)の再生をうながすために小屋をつぶすのがシチャガマの行事だろう」(p.28)と述べている。そのためシチャガマは太古の人々が稲をつかさどるイナダマを再生させ豊穣を祈る儀式であったこと推測されるのだ。ちなみにこのイナダマは非常に気まぐれな神であったらしく谷川は「ちょっと気に入らぬと他所へ行ってしうとおそれられ、ていねいなもてなしが必要である。とくに稲の穂ばらみの頃は、イナダマが稲穂に孕まれる頃で。人々は気を使って、足音を忍ばせて歩いたという。」(P.28 )と記している。こうして見るとイナダマは神がかり的な力で豊穣をもたらすのではなく蝶や蜂が花粉を運び受粉させるような役割を持っていたようにも見える。当時の神は神として確立された存在ではなく自然の一部として存在していたのかもしれない。谷川は神として確立された神と原始的で自然の一部として存在していた神を区別するためにあえてイナダマについて語るときに「神」ではなく「カミ」と表記したのだろう。こういった太古の時代は神を目上の存在として崇めるのではなく、人々が自然と神と共生して共に生きていた時代だとも言えるであろう。
4.アイヌの信仰
 さて、上記では奄美の稲をつかさどるイナダマについて記したが今度は北海道のアイヌによる信仰を見てみようと思う。アイヌによる信仰もやはりアニミズムでありそれは本州や奄美や沖縄などの南の島々より、より一層自然崇拝の色が濃かったといえるであろう。本書によると「『日本書紀』などに活写された草木石や青水沫までものを言う世界は、アイヌの世界にもっとも近い。アイヌは全てのものに霊魂を認めていた。」(p.66)とのことである。そしてアイヌのこういった信仰を知る上で最も重要になってくるのはやはり炉の火の神であろう。この炉の火の神は「アペ・フチ」(火の婆様)や「カムイ・フチ」(婆様神)と呼ばれ人間と神を仲介する役目を持っており、炉の自在鉤や炉にかけた鍋もアペ・フチの配下の神が宿ったのだという。さらに家の中の家具や着物全てに神は宿るとされていて上記で記したように全てのものに神が宿っていたとされる。こうなってくるとどこもかしこも神だらけであり家でよこになってくつろいでいるときも相当な数の神の視線を浴びることになる。そう考えるとなんとも落ちつかなそうであるがようは考え方なのであろう。たとえば私はシャワーや風呂桶なんかに裸を見られても何も感じはしない。何故ならそれは当然のことであると幼少より教わっているからである。アイヌの人々も同じような感じだったと思われ万物に霊魂はあるのは当たり前であるからして身の回りにかなりの数の神がいてもそれが彼らにとっての当然であったのだろう。そうした環境の中でアイヌの人々は我々よりもはるかに神という存在を近くに感じ慣れ親しんでいたのかもしれない。そうした中であっても彼らは自然や神に対しての尊敬や信仰は忘れてはなかったのだ。
 本書によるとアイヌの人々は漁に出るときに炉に祈りを捧げ神棚に祈りを捧げ、さらに浜辺で波打ち際の神、波の上の神、湾の神、船の各部品の神々に祈りを捧げてからようやく漁にでたのだという。さらに動物を殺すときにも例外なく丁重に儀式を行い本書では熊を殺す場合の儀式を例としてあげている。それによると「アイヌの熊狩歌は、熊狩に行って熊の穴を見つけた時、熊の穴の入り口に立って槍を構えながら歌ったものである。歌の文句はまず自分の素性を名乗り先祖代々自分の家と山の神(熊)との間に特別な友好関係があった所以を述べ、山の神がその姿である霊に返って山を降り、ふもとの村を訪ねてくれるように懇願する内容のものだった。」(p.68)と記している。このようにアイヌは自然に対しても物に対しても感謝の心を忘れず自然信仰の模範とも言える信仰を築き挙げてきた。このアイヌの信仰こそが本来の自然信仰にあるべき姿なのではないだろうか。
5.見果てぬ原郷への夢
 ここまで日本の神、および神の姿や信仰について掘り下げてきた。奄美や北海道の事例についてここに記してきたがおそらく同様の自然信仰は本州の各地で行われていたものと思われる。ただ、それは長い時間の中でカミが神へと変質し崇め、信仰する対象へ移り変わっていったことや仏教の進出などにより風前の灯となり戦前の国家神道がとどめを刺した形となったのであろう。そしてここまで自然信仰について掘り下げ日本人の心の原点とも言えるカミの時代について浮き彫りにしてきた。そこには弥生時代のはじめから「日本書紀」や「古事記」編纂される八世紀初頭までの悠久の時間の中で芽吹いた自然信仰があり、それは人々が自然と共生するために生み出した心の形であるように私は思う。本書の著者である谷川はこれらの世界を「見果てぬ原郷への夢」だと記し、それは日本人の意識の奥深くに殆ど自覚されることなく存在するとしている。私はその「見果てぬ原郷への夢」について自覚をしたときからこの世界に魅入られていたのかもしれない。私がそれを自覚したのは東日本大震災の時である。被災当時、東北地方太平洋岸地域が深い傷を負ったが、地元の人々は「人は自然には勝てないから」「自然の事だから仕方がないさ」と言いながら多数の人間が数日のうちに復興作業に着手し驚異的なスピードで作業は進んだ。私の周りの人々も悲しみ悲嘆にもくれたが皆「自然の事だから」と前を向いて今できることを淡々とこなして行ったことを覚えている。その中で私はこうした日本人の強さについて考え、それについて調べたときにその「見果てぬ原郷への夢」にたどり着いたのであろう。
たしかにそういう面があり、鋭い問題意識ではあるが、自然は多面的であるから、一概にそうとばかりは言えないという面があることも、考えておくべきだろう。
 上記に記したようにこれら日本人が現在も持ち合わせている自然に対して抱いている物は太古の昔に日本人が築き上げた自然信仰の名残であるように思えてならない。
そして、今なお日本人の心の奥底に眠る夢について、谷川は「日本人が日本の神々の原像を求めて、この夢を遡行するとき、それは意外に日本人の未来への出口を指し示すことになる」(p.ⅰ)と本書に記している。おそらくそれは、自然との付き合い方を忘れてしまった今日の人々に最も必要な未来への出口を指ししてみているような気がしてほかならない。科学が発達し自然破壊が進み、地球温暖化が叫ばれる今日だからこそ、我々は太古の日本人が作り上げたカミの世界について考察し、「見果てぬ原郷への夢」を求め 遡行するべきなのかもしれない。

参考
日本の神々 .谷川健一岩波書店、1999

 引用の仕方が適切で、読解が明快である。ただ文章の息が長すぎるので、適当に章立てをして、行もかえた方が読みやすくなる。
スポンサーサイト
| FC2 Blog Ranking
| HOME |
03 | 2017/04 | 05
S M T W T F S
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

OTHERS

TAG


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。