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地元のさまざまな伝承

学生たちこんなことしてます! 2013/03/10

WEB上で見やすいように教員のコメントを赤字、引用文を青字にしています。

フィールドワークレポート
地元のさまざまな伝承 レポートでは「地元」という言葉を使いません。客観性が大事なのでこの場合だったら「香川県三豊市財田町の伝承」でいいのです。

S.M

地元の説明 レポートではことさらに「私」を書く必要はありません。

 今回、話の舞台となる私が生まれ育った「香川県財田町財田上黒川」という地域には、さまざまな伝承が残されている。まずは、この地域について説明する。
宮崎1

 この地域「黒川」は「山分地区」(「山分地区」は「別所」「昼丹波」「野田原」「黒川」の四つに別れている)の中にあり、標高が高いため、冬には雪が薄く積もり、春は少し肌寒く、夏は少し涼しい、秋には台風が来ようがあまり被害は出ない、大きくはないがとても過ごしやすい地域だ。「黒川」は、「黒川」「小触」「横倉」「永倉」「信谷」の地区に分かれている。その中の一つに、「小触(コブレ)」という地区があるが、この地区はこの黒川では最も古い集落であり、弥生時代には、もう村があったといわれている。このブレというのも古代日本語=古代朝鮮語のプレ(集落)から来ているものであると考えられている。それだけ古くからあるため、伝承や、怪綺談などは数多く聞かされてきた。以降は、伝承について書いていく。

鯰塚
 黒川についての伝承ならこれを語らなければ始まらないだろう。

 昔、亀渕という沼に化け物が住んでいた。その化け物は隙を見て、村人や家畜を沼に引きずり込んで食べていたため、村人は大変恐れていた。したがって、日が傾きだすと付近の人々は雨戸を固く締めて、外出するものはほとんどいなかった。ところが、この亀渕は阿 波・琴平間の街道筋にあたっているため、旅人の中に思いがけない被害をこうむるものがたびたびあらわれた。あるとき一人の旅人がこの化け物に襲われた。村の若者が恐る恐る近づいてみると、旅人は全身傷だらけで、喉頸が食い破られて息絶えていた。懐に路銀と旅手形があったためその旅人が阿波の人であることがわかった。飛脚が直ちに阿波に走ったが、郷里では妻子が金毘羅様にお祈りをして、無事の帰りを待ちわびているところで、その悲報に驚き声も出なかった。その話を聞いた里のものは、酷く怒り仇討をすることになった。阿波から亀渕まではかなり遠く、めいめいに二日分の弁当を腰につけて、かま、竹槍、農具、棒を持って阿波を後にした。阿讃山脈の頂上で腹ごしらえを済ませ、荒戸(財田の地域の一つ)の峯にかかったのは日暮れであった。そこへ一人の旅僧が、疲れた様子で山を登ってくるのに出会った。僧は腹が減ったので、弁当を分けてくれといった。阿波の衆の気の利いた者がすぐに粟飯のむすびを差し出した。僧は、二つほどむすびを食べると、どこに行くのかと尋ねてきた。阿波の衆は、仇討の話を事の起こりからすべて話した。すると、僧はそんなことはやめろ、殺生は良くないと皆に言い残して去って行った。しかし、阿波の衆を止めることはできませんでした。 他はすべて「だ、である」なのにここだけ「です、ます」調はおかしい。
 阿波の衆が黒川についたとき、日は傾き始めた夕飯時だった。阿波の衆は、ひとまず休み、夜を待つことにした。夜が更け、木々が眠りについたころ、阿波の衆は亀渕についた。そして思い思いに、化け物をおびき寄せようとしていると、化け物は忽然と現れ、若者の足にかみつき、沼に引きずり込もうとし始めた。一同はこれに飛び掛かり、手に手に固く握りしめられた道具で叩きのめすと、化け物はのたうちまわり、腹を返して息絶えた。
 よく見ると、それは大人くらいのサイズの大鯰であった。また、大鯰の裂けた腹から粟飯が出ているのをみて、一同は、荒戸の峯であった僧は大鯰が化けていたものだと気づき、改めて背筋を寒くした。
その後大鯰はその場で灰にし、骨の一部を阿波に持ち帰り、残りは塚に埋めた。これが鯰塚であり、この時に大鯰が流した血によって、渕一面が黒く染まったので、この土地の地名は黒川になったとされている。[財田町誌]


 この話は、財田町民ならだれでも知っているような昔話で香川用水記念公園に行けば、紙芝居のようなものが見られる。しかし、黒川の住人でも実際に亀渕に行った事のある人は少ないらしく、その理由として、道が整備されていないことと、他人の畑を、横断することでしか安全な道がないことがあげられる。行ったことのあるものは、冒険好きな小学生やその付き添いがほとんどであり、大人はまず行こうとはしない。私は、後者であって、ローカル放送で一度だけこの話が取り上げられたことがあり、その撮影で地域の子ども会が同行したことにより、一度だけ亀渕に行ったことがあるが、特におかしなこともなく、ただの沼のようであった。古人によれば、具体的に誰なのか?データがあれば記すこと。例:(「財田町誌」P85)など。国道が整備されてからは、亀渕も行きやすくなったが、昔は木が鬱蒼と生い茂り、薄暗く、とても恐ろしかったそうだ。もしかしたら、この話は、よくある河童伝承をアレンジして、子供を渕へ近づけさせないようにするための話だったのかもしれない。しかし、鯰塚は実際にあるのだから、もしかしたら本当にいたのかもしれない。なお、釣り好きな知り合いによれば、現亀渕には、鯰はおろか、魚すらいないそうだ。また話の中で、黒川の名前の由来が出たが、これには諸説あり、川が蛇行し渕ができるような川筋を「曲川(クルカワ)」といい、これがなまったと考える説、荘園に対する国有地「公領(クラ)」から公領側であろうとする説など、どれも信評性が低い。よって、大鯰がいたという説も濃厚といえなくもない。あと、この話は、口伝であるため、いつごろの話なのかどの書物にも記されていない。どの書物にも記されていないとはいえ、「財田町誌」には掲載されているのだからこの書き方は不正確。上の諸説もどこに書かれていたか書いておく方がよい。        
*写真は鯰塚である。
宮崎2


八重の猫岩
 別所と梅之塔との境に八重山という山があり、そのなかに大きな岩がある。
 むかし、山の付近で吉兵衛さんが田んぼをしていると、子供が三、四人、山頂から真っ青な顔ではしって降りてきて、「おっさん、うちの良造に山猫がかみついた。」といって泣きじゃくった。吉兵衛さんはびっくりし、近所中を走り回ってこのことをふれた。村の人々が三三五五と馳せ集まって山狩りを始めた。笹の葉の上に血が凍りついているのを発見し、人々は血痕をたどって「良造、良造。」と叫びながら、探して歩いたが、山の奥でバラバラになった遺骨を発見して皆は失望した。そこで、この上は山猫を探し当て仇を討とうとしたが、その姿はどこにも見えなかった。血の味を知った山猫は、その晩も里へおりて来たらしかった。
 翌日の夕方、一人の武士が通りかかって、野田原で宿をとった。宿の亭主が昨日の大騒動の次第を話すと、武士は即座にその山猫を退治してやろうといい、次の日の朝、村の人々に案内してもらって八重山を登っていった。山奥に分け入って木陰で一同が息をころして身をひそめていると、岩の間から一匹の大猫が現れた。武士は鞘を払って大猫に切りかかった。猫は異様な声をあげて武士に飛び掛かったが、武士は体をかわし、けさがけ刀を振り下ろした。大猫はもんどりうってその場に倒れた。村の人々は歓声をあげ、五十両のきんすを武士への礼にした。猫が出て来た大岩には、件の武士の名が彫り付けてある。そして、大岩は猫岩と呼ばれるようになった。またこの猫岩から二間あまり離れた所に苔むす一基の墓があるが、それは、非業に倒れた良造の墓である。[財田町誌]


宮崎3

 この話は、あまり人に知られてはいないが、個人的に好きな話なので選んだ。レポートは客観性を重視するので、個人的にどうのという書き方はしない。この八重山は私の実家があるため、小さいころに聞かされたときは、猫を探しによく山を登ったものだ。この猫が出てきたとされる岩には、確かに隙間があり、猫が暮らしていたと考えられる。さらに、お墓も今も静かにたっている。この話も口伝であるため文献などはないが、被害者の墓も残っているためか、どこか信じられる。伝説、昔話を扱う時、信じる信じないの問題ではない。あと、余談ではあるが、この山を一人で登ると、よくおかしなことが起こる。私が体験したことをあげるならば、誰もいないはずなのに鈴の音が聞こえてきたり、あるはずのない神社があったり、井戸があった場所に何もなくなっていたり、歌声が聞こえてきたりとなかなかスリルがある。余談というよりは、そのような怪異に近い緊張感をいまだに与えるからこそ、伝承が残るのだというように考えて書くこと。こういう山だからこそ、大山猫がいたとしてもなんら不思議ではない。*写真上:猫岩、下:墓である。
宮崎4


まとめ
 今回は、二つの話を取り上げたが、ほかにもまだまだ言い伝えが残されている。天狗が羽休めをする松の話や、武士の呪いの話、首のない馬の話や、袖を奪う怨霊の話など、とてもじゃないが調べきれない。また、土地のいわれや、神社の話など、書きたいことがたくさんあるが、またの機会に回すことにする。
 私はレポートの書き方にまったく自信がない。そのため、もっと書きたいことがあるのに、書くスペースがないなどというおかしなことが起こってしまう。それに、自分の書きたいこととは別のことを、無駄に書き入れたりしてしまって話がまとまらなかったり、論点がずれていたり、調べていても、違うことに興味が移り、無駄に時間がかかったりした。次に書くときはちゃんとしたものが書けるようにしたい。
 フィールドワークをしてみて、初めてのことで右の左もわからなかったが、やっているうちに、だんだんと慣れていくのを感じた。調べ物もしているうちにいろんな話に興味が出てきて、たのしかった。もっとたくさん調べる時間がほしいと思う。今回は、すべて自分で本を見て、地図を重ねてみたり、辞書を引いたりした。できれば、人に聞きたかったが、詳しい人を見つけることができず、妥協するしかなかった。次にするときは、ちゃんと話を聞けるようにしたいと思う。そう思うのも、今回一人で調べてみて、文献や文章を自分の先入観を捨てきれずに見てしまうことや、文献によっては、矛盾が生じていたからだ。それに、難しい単語が出てきても、調べられたらいいが、古い方言などは調べることができないものもあり、とても大変だった。このようなことが身を以て実感できたので、それだけでも収穫だといえる。
 素朴な反省だが率直でよろしい。まだ、伝説や伝承を読み解く方法をまったく知らないのだから、しかたがないのです。大学では、このような怪異伝承に向き合うやり方をしっかり学べるので、楽しみながら吸収してほしいものです。
 今回の反省を生かせられるように、今後レポートを書くとき、まず初めは書く題材を明確にして、紙の位置取りを考える。
 次に題材について、詳しい人に直接聞き、正確な文献を選んで情報を的確に手に入れる。人に聞くときは、あらかじめ質問内容を考えておくこと。電話で了承を得る際につないでもらえるように、相手の名前をきいておく。この情報収集になるべく時間をかけるようにする。メモだけでなく、たまに文章も書いておく。実物を写真に収めるとき、サイズがわかるものを一緒に写すことと、正確に測れるメジャーなども必要。
 最後に打ち込むときになるべく、完成形を意識するようにする。章をいくつ作るかを決めておく。また、章の割り当てを考えておく。完成したら読み返してみる。できれば、第三者に見てもらう。
 これらを守って次こそは、ちゃんとかけるようにしたい。

今回使った文献が「財田町誌」のみのようですが、最後に参考文献として「財田町誌」を記して於いて下さい。
例:参考文献 『財田町誌』財田町誌編纂委員会編、香川県三豊郡財田町、1972


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