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花園町地区、及び同地区の伝承及び、同地区の歴史について

学生たちこんなことしてます! 2011/03/25

入学前教育で課したフィールドワークレポートです。赤字は教員のコメント、青字は引用文です。

花園町地区、及び同地区の伝承及び、同地区の歴史について
M.K

【1】花園町地区について
今回調査に訪れた鳥取県米子市旗ケ崎に存在する花園町地区は、現在は廃れ
(廃れではなく、過疎化し)昼間でも人通りの無い町と化しているが、かつては数十軒もの遊郭が建ち並ぶ歓楽街であり、とても華やかな場所であったと言われている。
(改行しないで前文に追い込む。改行した場合は一字空ける。以下同じ)
そしてこの地区名の由来は遊郭の別称である花園と云う言葉からきており、現在では地図表記も花園町となっている。
また、この地区は遊郭が出来る以前には高砂(たかずな)と呼ばれており、人家はおろか畑も存在しない地区だったと言われている。
そして、高砂と云う地名の通り、この地区全体はかつて幾つもの砂丘が存在し、中でも特に標高の高かった砂丘には後述する鴨御祖(かもみおや)神社と呼ばれる神社が存在し、今日でもその砂丘は存在している。
また、この地区には今日でも昭和
(昭和不要)1958年3月31日の売春禁止法施行まで営業を続けていた遊郭が数多く残されている(写真1、2参照)
望月1  望月2
(写真1)              (写真2)
なお、どちらの写真の建物にも現在も住人が居り、これらの写真は住人に許可
(学術論文等の場合、許可不要)を得て撮影したのもである。
この地区の住人の話によると写真2に写っている道路は、アスファルトが敷かれる以前は中央には飛び石の様に等間隔で、石垣で囲われた築山に植えられた桜の木の並木が存在していたそうである。
また、建物の多くは明治時代後期から昭和初期に建てられたものが多く、明治時代初期から中期までは町屋造りの建物が建ち並んでいたそうである。
町屋造りの旧遊郭の建物は現在でも一軒だけ存在しているが、撮影許可が下りなかったため写真を掲載出来ないのが悔やまれる。
また、戦後この地区には中国や満州国から引き揚げてきた移民たちが多く住み、今日でもまるで三丁目の夕日と云う映画
(映画『三丁目の夕日』とする)に出てくるような建築物やバラックが数多く残されている。
しかしながら、既に住人の多くは死亡、もしくは転居してしまっている為、廃墟と化し、損壊もしくは倒壊してしまっている建物が現在問題となっている。
【2】通称糺神社こと、鴨御祖神社について(地図を入れる)
 この神社(神社名を入れる)には、由来を示すものが建てられておらず、地区の住人はこの神社の正式名称である鴨御祖神社と呼ぶ事は無く、もっぱら通称であるタダスさんと呼んでいる。
神主に話しを伺ったところ、残念ながら神社の由来は分からなかったが、米子市にある錦ライオンズクラブと山陰歴史資料館の学芸員によって纏められた「米子のふるさと散歩」と云う本の36ページ、「糺神社」と云う項目によると、この神社は元々、博労町と云う地区にあったと書かれている。
博労町に建てられた年代は現在では不明であり、何故建てられたかも現在では不明になっている。
糺神社と云う名の由来は、京都の糺の森にある加茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の分霊を受け入れる為に建てた為なのだが、宝暦七年(1757)年、火災で焼失するまでは加茂神社と呼ばれていたと同書には書かれている。
火災で焼失後、現在の場所である高砂の中で最も高い砂丘に建て替えられ、それ以降この砂丘が糺坂と呼ばれ糺神社と呼ばれるようになったとも書かれている。
しかしながら、この地区の公民館長の話によると、それ以前からタダス坂と漢字は当てられることなく言われていたと云う。
現在では博労町には鴨御祖神社の痕跡を探す事は出来ないが、現在でも博労町に存在する勝田(かんだ)神社と云う大きな神社との面白い話が残っている。
勝田神社の例大祭は4月と10月の15日に行われ、鴨御祖神社の例大祭は同月の21日に行われる。先に行われる勝田神社の例大祭の天候と鴨御祖神社の例大祭の天候は真逆の天候になると言われており、また、私(誰?)の経験上一度も外れた事がなく、鴨御祖神社の神主の記録によると此処30年はその法則が外れた事がないと言うのである。
また、この地に鴨御祖神社が移されてからこの糺坂はいくつもの怪談の舞台になっている。中でも、江戸中期に書かれた「米府鬼話」(『』で示し注番号を入れ、文献を提示する)と云う本に書かれている「糺坂の怪」と呼ばれる怪談と、「狐の遊女」と呼ばれる伝承が特に有名であり、現在でも様々な都市伝説の舞台として使われている。
しかし、残念ながら現在は糺坂の怪の舞台となった坂は昭和45年の道路拡張工事によって姿を消してしまった。(写真3)(古い地図を探して入れる)

望月3

かつてはこの写真に写る義方(ぎほう)小学校の校舎近くまで糺坂は存在していた。

冬になると糺坂を使ってスキーや轌を使った遊びも盛んに行われ、糺坂が存在していた当時、義方小学校の教師をしていた方の話によると、体育の授業にはスキーが含まれていたそうである。

写真横の文章だけ四角で囲むのはおかしい
糺坂の怪と云う伝承のあらましはこうである。(事例は本文と一行空ける)
昔、尾関三郎右衛門(おぜきさぶろうえもん)と云う境港の奉行所に勤める侍の母親が亡くなった。亡母を菩提寺であるに弔うため親類や友人たちと共に糺坂を通り愛宕町にある菩提寺である曹洞宗大龍山総泉寺に向かう算段をした。そして算段通り順調に一行は総泉寺へと向かい、まだ日が高い頃に糺坂へと到着した。しかし、「まだ日が高くて暑いから、夕暮れになってから糺坂を越してしゃおう」と云う話になり、一行は棺を降ろしそこで夕暮れを待った。
すると、そこで喪主の尾関三郎右衛門の顔が真っ青になり座りこんでしまった。
友人は「わはそげにえらいなら先に行って休んじょれ(お前、そんなに具合が悪いなら先に行って休んでろ)」と心配して云うと、尾関は「子が母の棺を置いて先に行くんは孝道にはずれおうが、お言葉に甘えて先に行って休ませてもらぁわ、ほんにすまんなぁ(子が母の棺を置いて先に行くのは孝道にはずれるが、お言葉に甘えて先に行って休ませてもらう)」と言って一足先に米子の町に入っていった。
日が暮れ、提灯に火を灯し一行は棺を担ぎ、歩き始めた。しかし糺坂にかかったところで、男が一人突然気を失って倒れた。助け起こして同行していた医者に診てもらおうとした途端、一陣のおぞましい程に気味悪く冷たい風が一行の回りを吹きぬけた。
すると、一行は全員気分が悪くなり、何人か倒れる者も出た。
「これは妖怪の仕業じゃ、ここにゃあ居られんぞ」と医者が言い、一行は棺を担ぎ倒れた者に肩を貸し、糺坂から逃げかえった。
後日、尾関三郎右衛門に医者が「どげな気分じゃったか?(どんな気分だったか)」と問うと、尾関は「身体も心もがいに冷えてしゃあて、ほんにきしゃがわるかった(身体も心も冷たくなって、本当に気持ち悪かった)」と答えた。
医者は他の倒れたものにも話を聞いたが、皆悉く同じような事を言ったそうだ。

『山陰歴史資料館発行、米府鬼話より抜粋』(引用文献は、著者、『タイトル』、出版社、発行年、頁の順で示す。引用文は文献通りに書き写すこと。)(一行アケル)
 現在では糺坂の怪があったとされる向き?の坂は無くなってしまったが、今日でも例大祭以外に夜間、糺神社を訪れるのは吉事ではないと言われ、また、坂の根元は閑散とした住宅街の為人通りもあまり無い。
ここで、糺神社について少々、より詳しく触れたいと思う。
糺神社の御奉神は玉依姫命と正体不明の神々幾数十柱、そして、狐の遊女と云う話に登場する糺森の狐である。
また、神紋はどちらにも割れていない立ち葵紋である。
元々は京都の鴨御祖神社より分霊されたとされる玉依姫命だけだったが、江戸中期~後期に糺森の狐が奉られたと言われている。
また、神楽殿には近年、米子市内の宅地開発によって取り壊された神社、社、祠から移された幾数十の名も無き土地神が奉られている。
神主の話によると、正確な数は不明だが、少なくとも三十柱以上の土地神が奉られているそうである。

望月4
(写真4)数十柱の土地神が奉られている神楽殿。(屋根が欠けている。正面から撮影)
御神体が物置のように雑多に納められており、写真にも御神体である虎の絵が写り込んでしまっている。

望月5
(写真5)糺森の狐を奉る祠。(中央がずれている)
拝殿の縁の下に設けられている。また、誰かが勝手に恵比寿と大黒天を奉り出したようである。

望月6 望月7
全体をフレームに入れる。    正面から撮る。
(写真6)糺神社の鳥居と拝門   (写真7)拝殿、そして本殿。
【3】今後の展望
 糺神社の参拝客は近年、近隣住民の減少により年々減少の一途をたどっている。
また、花園町地区はその成り立ちから、学校の地域教育、町の歴史教育と云った総合科の授業では教えられることがない為、糺神社の伝承や花町のかつての栄華を現在の小中学生は知らないものが多く、近隣住民ですら伝承を知らないものが多い。
元々高齢化の激しい地区である為、語り部の減少がここ数年は激しく、今回取材させて頂いた(調査した際に)義方公民館長である松山氏に出会えたことは非常に幸運と言える。
風情ある近代日本建築が数多く残る地区である花園町だが、住人の減少に因る荒廃化は激しく、同市に存在する戦後にできたバラック建築物が多く残る朝日町地区では、去年度から不審火が度々発生しており米子市井にはこう言った古い建物が多く現存している地区の再開発、もしくは更地化を望む声が多く挙がっている。
その為、今回調査する事が出来たのは非常に幸運である。
花園町地区の近くにある義方町地区に住む私でも、花園町の詳しい歴史は知らなかった。
今回は、詳しい歴史だけではなく、街並みに関しての書物ではなく、当時生きていた人からの生きた話が聞けた事により、紙面では分からない遷移を知ることが出来た。
しかし、その当時の街並みを撮影した写真が見つからなかった事が残念である。
また、花園町はその歴史から、米子市史の中でも抹消されている部分が多く、米子市立図書館には糺神社に触れられていてもこの地区に関する事の記述された本が存在していないと云うこの事実は、私自身が考えさせられる出来事だった。
しかしながら、私は今回の調査によって知り得た、伝承と地区の歴史を残していこうと思うと思う良い機会になったのである。


一行空けてツメル


参考文献
米子錦ライオンズクラブ及び山陰歴史資料館運営委員会著『米子のふるさと散歩』
山陰歴史資料館運営委員会編集及び発行『米府鬼話』(発行年を入れる。)

全体評価:花園町という花街に注目し、神社、怪談、建築物、廃墟にまで言及した点、さらに聞き取り調査、写真を多様した点は評価できる。
 文章表現、形式(改行が多すぎる)、参考文献の提示は、今後の課題。地図を入れる必要がある。











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