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『遠野物語』と都市伝説

学生たちこんなことしてます! 2010/08/05

学生のすぐれたレポートを公開しています。これは現役2回生のもの。とても1回生ではマネができないでしょう。

『遠野物語』と都市伝説   J.F.K
1. はじめに
 ここに、『遠野物語』という本がある。この本は岩手県遠野の口頭伝承を集めたものである。『遠野物語』に収録されている話には、天狗やザシキワラシなどといった、現実には存在しないものに関する話が少なくない。しかし、この話を伝承した遠野の人々は、これらの話を事実と信じていたか、あるいは少なくとも語りの中では事実だとしている。なぜこれらの話が事実だとされたかは、詳しく研究してみなければ分からないことだが、少なくともそれらの話を事実として語らなければならない理由があった、ということは確かであろう。
 さて、『遠野物語』の話のように、語りの中では事実だとされるが、現実には存在しないであろうものごとに関する話は、現代にもある。それらは一般に都市伝説と呼ばれている。『遠野物語』は前述したように、遠野という小さな村落共同体において伝承されたものであるが、それに対して都市伝説は、文字通り都市で伝承されているという点が特徴なのである。
 マンションの隣の部屋に住んでいる人間の顔すら分からない巨大な都市と、住人が互いの名前を知っている地方の村落とでは、その生活が大きく異なるのは言うまでもないだろう。では、地方に伝承される伝説や昔話と、都市に発生する都市伝説とでは、同じ口頭伝承でもその内容は異なっているのだろうか。
 昔話や伝説は、それを語らなければならない理由があるから生み出されたのである。ということは、似たような理由さえあれば、状況さえ整えば、昔話や伝説と似た都市伝説が生まれることもあるのではないだろうか。都市の口頭伝承と地方のそれとはかけ離れたものではなく、むしろ共通点や類似点があるのではないか、と考えたのである。
 本レポートは、地方の口頭伝承である『遠野物語』と、時代も場所も異なる都市伝説とを比較して、二つがどのように類似しているかを指摘し、さらにそれがどのような意味を持っているのかについても少しばかり言及しようと思う。
 
2. 構造分析について
本題に入る前に、どのような方法で『遠野物語』と都市伝説を比較するのかについて述べようと思う。
同じ口頭伝承であるとはいえ、ただ話を並べて雰囲気が似ているなどということでは、信憑性も説得力も欠けている。そこで本レポートでは、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが『構造人類学』に収録されている論文「神話の構造」の中で使った、構造分析という方法を用いようと思う。
構造分析とは、レヴィ=ストロースが神話を理解するために編み出した方法で、神話はいくつかの関係が組み合わさることによって成り立っていると考え、複数の神話を一つひとつの関係ごとに解体して、個々の関係を比較し、異なる神話に共通する関係を見つけることで、それらの神話に共通する普遍の構造を抽出するのである。
この説明では一体どのような方法なのかわかりにくいので、レヴィ=ストロースが「神話の構造」において構造分析をおこなった際に、オイディプス王の神話を解体して取り出した一つの関係を、お手本として以下に引用する。

オイディプス、母イオカステーと結婚する」(『構造人類学』239ページの表より引用)

 関係とは上の引用文のように、誰が何をした、というようなごく短い一文で表される。全体としては全く似ていない話であっても、一つひとつの関係の類似性を比較することで、その構造は同じであるということを、非常に分かりやすく提示できるのである。
 もっとも、構造分析に対する私の理解が正しいものであると断言するだけの自信は、正直なところ今の私には無い。しかし、だからこそ実際に構造分析を自分の手でおこなって、より理解を深めていこうと考えている。そのため次章から分析をおこなっていくが、それらはレヴィ=ストロースの構造分析を参考にした、私流の構造分析のレベルであるということを、ここで断っておく。

3. 「サムトの婆」と「日本だるま」
まず、『遠野物語』に収録されている、一つの話を紹介する。

 「黄昏に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢ひたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりといふ」(『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』20~21ページより)

この話は『遠野物語』の八番の伝承で、俗に「サムトの婆」と呼ばれている。行方不明となった若い娘が、何十年も経った後に老婆となって帰ってくるというストーリーで、いわゆる神隠しのような話である。
では次に、この「サムトの婆」と比較する、「日本だるま」という都市伝説を紹介する。

 「ある日、二人の若い女の子が大阪に遊びに行った。人混みではぐれてしまったので、片方の女の子はいっしょうけんめい探したそうだ。しかし夜遅くなっても見つけられないので、しかたなく家に帰ったという。すると、はぐれた子の母親から「うちの子がまだ帰ってないんですが」と電話があった。さっそく警察に捜索願いが出されたが、まったく見つからない。そして半年ぐらい過ぎて、警察から知らせが入った。香港にいるらしい両親はいそいで飛行機でそこまで行くと、自分の娘はなんと香港の見世物小屋にいた。両手両足は切断され、そのお腹の中には誰のものとも知れない子供が妊娠させられていた。当然、その娘は気が違っていて、わけの分からないことを口走っている。母親は「こんな生き物はわたしたちの娘じゃない」と言って、行ってしまった。その見世物小屋にはこんな看板が掲げられていた。「日本だるま」」(『ピアスの白い糸 日本の現代伝説』181ページより)

この話も「サムトの婆」と同様に、若い女性が行方不明になり、変わり果てた姿で発見されるという話であるが、神隠しというよりは、何らかの犯罪のような話であり、極めて現代的な内容である。
では、百聞は一見に如かず、実際に構造分析をおこなってみることにする。レヴィ=ストロースは構造分析をおこなうにあたって、収集された類話を全て等しく分析にかけることの重要性を強調しているが、本レポートでは複雑になることをさけるため、上に引用した「サムトの婆」と「日本だるま」の二つだけを対象とする。また話から取り出す関係も、表を簡略化するために、それぞれの話で中心人物となる、行方不明になる若い女を主語とした関係のみを表記することとする。


【表1】「サムトの婆」「日本だるま」の関係表

            サムトの婆                     日本だるま

1:離脱    若い娘が梨の木の下に草履を残して行方不明となる  若い女の子が大阪で行方不明になる
2:再会    娘は三十年ほど後に帰ってくる        女の子は半年後、香港の見世物小屋で見つかる
3:異常    娘は非常に老いている            女の子は手足が無く、妊娠している
4:拒絶    老いた娘は村を去る             女の子は母親に拒絶される

 これらの関係から、二つの話に共通する構造を明らかにしていこうと思う。
 まず1の欄だが、これは行方不明になるという点が共通しており、特に「日本だるま」の方は自分が住んでいる地域から離れた場所でいなくなっている。居住する場所から離れるということはつまり、共同体からの離脱を意味していると思われる。そのためこの欄を便宜的に「離脱」と呼ぶ。
行方不明になった娘は、それっきり見つからないというわけではない。しばらく時間が過ぎてから発見されるのである。それが2の「再会」欄であり、再会の仕方は異なっているが、見つかるという点では同じ関係である。
3の欄は「異常」とする。というのも、この欄は再会した娘が異常な存在となっていることを意味しているからである。「サムトの婆」は三十年という歳月がもたらす以上に老化しており、「日本だるま」の方はもっと分かりやすく、四肢がないという明らかな異常性が見られる。
4の欄は、娘が異常であるということによって、もう元の共同体には戻れないということを意味している。「サムトの婆」では老いた娘は村落から去ってゆき、「日本だるま」は手足の無い娘は母親に見捨てられている。この欄は、元々の共同体からの「拒絶」という点が共通しているのである。
この一連の関係をまとめると、次のような構造を抽出することができる。一度自分の属する共同体から出て行った者は(離脱)、再び共同体に戻ってくることができたとしても(再会)、その共同体とは相容れない異界の者となっているため(異常)、もう元の共同体に属することはできない(拒絶)。これが、「サムトの婆」と「日本だるま」に共通する構造である。
 そしてこの構造は、単純に共同体を出てはならないという意味を持っていると思われる。下手に共同体の外へ出てしまうと、悪いことがおきて二度と元の生活には戻れないから、他所へ行ってはならない、という教訓譚のような側面が、二つの口頭伝承に共通している。
 これで、「サムトの婆」と「日本だるま」、地方と都市という正反対の場所における口頭伝承が、実は同じ構造を持つものであったことが明らかになったと言えるだろう。次章では、この結果を踏まえての今後の展望のようなものを示すことにする。

4. 今後の展望
 前章において抽出した構造から、どのようなことが言えるのか。実のところ、それについては私の中でも上手く整理できていない部分がある。そのため本章では、何らかの結論を提示することはできないが、今回の分析の結果のどのような点に注目できるかというような、今後の可能性について言及しようと思う。
 「サムトの婆」と「日本だるま」では、全体の構造と、一つひとつの関係は同じでも、場所や状況は異なっている。例えば、「日本だるま」の方では若い女性は大阪で行方不明となり、香港で発見される。この場合、なぜ大阪や香港という場所が選ばれたのかという点について調べてみることで何かわかるかもしれない。
また『遠野物語』に収録されている、「サムトの婆」と類似した話=同じ構造を持っているであろう話では、娘が発見される場所として山が選ばれる場合が何件かある(『遠野物語』の六話や、『遠野物語拾遺』の一〇九話)。 「サムトの婆」と「日本だるま」が同じ構造を有している以上、共通する関係において同じ位置を占めているものは同じ役割を持っているだろう。つまり、『サムトの婆』の類話に見られる山という場所と、「日本だるま」の中での香港とは、それぞれの話を語った人々が同じイメージを抱いていた場所なのではないだろうか。村落共同体の人々が山に対して何か畏怖のような感情を持つのと同様に、現代の都市の人々は香港のような場所に対して得体の知れない思いを抱くのかもしれない。
 また、「サムトの婆」と「日本だるま」とでは、「再会」そして「拒絶」の部分で人物の立場が逆転している。「サムトの婆」では娘の方から共同体に戻って来て、また去ってゆく。しかし「日本だるま」の方は、娘は母親に見つけられ、そして母親によって拒絶されるのである。この主体と客体の逆転が何を意味するのかはまだ分からない。これだけのことで、例えば「現代では母親は娘に対して冷たい」などというような、何らかの結論を導き出すことはできないが、こうした立場の変化についても一考の価値はあるのではないだろうか。
 このように、同じ構造を持つ口頭伝承の細部、話の中に登場する場所や主体・客体などに注目すれば、より興味深いことが分かるかもしれない。
5. むすびにかえて
 以上で本レポートは終了であるが、最後にむすびにかえてと題して、蛇足ではあるが本レポートを書いての反省・感想を述べようと思う。
 本レポートは、構造分析という方法を使ってレポートを書く、という点でのみ、ある程度成功したと言えるだろう。しかし、『遠野物語』と都市伝説の構造分析をおこなってみようという所から出発してしまったため、分析後の発展に欠け、ただ構造が同じだと分かっただけ、というものになってしまった。興味のあることがまずあり、それにふさわしい方法を後から選ぶのが順当であろう。本レポートは方法から決めてしまったのが一番の失敗である。
 構造分析は、複数の口頭伝承が同じあるいは異なった構造である、ということに説得力を持たせるには非常に有効だろう。構造分析を使いこなし、より興味をかきたてられるレポートを書くためには、その点を理解しておかなければならなかったのである。


【参考文献】
 ・柳田国男『新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺』角川学芸出版 平成16年発行
 ・池田香代子ほか『ピアスの白い糸 日本の現代伝説』白水社 平成6年発行
 ・クロード・レヴィ=ストロース『構造人類学』みすず書房 昭和47年発行
 
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