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オオカミ信仰の寺社について

学生たちこんなことしてます! 2015/04/11

オオカミ信仰の寺社について
T・I

1.はじめに
 本稿では、旧丹後国の大川神社を中心に、旧丹後・若狭におけるオオカミとその信仰について記述する。

2.オオカミについて
 オオカミは、哺乳綱ネコ目イヌ科イヌ属に分類される哺乳類である。主に北半球の北の部分、ヨーロッパ、アジア、アメリカの各大陸に生息し、北方産のものほど体が大きく、南方に行くにしたがい小さくなる。
 高地、森林、草原などに棲息し、主に群れでの狩りを行い獲物を捕らえる。オオカミのエサとなるのはシカ、イノシシ、ネズミなどの他にヘビ、カエル、小鳥なども含まれる。
 日本列島にはかつて、北海道のエゾオオカミと、本州・四国・九州のニホンオオカミの2種類のオオカミが生息していたといわれている。このうち、エゾオオカミは主食のエゾシカの乱獲による減少に加え、害獣として駆除の対象となったことによって明治22年(1889年)に絶滅したとされている。一方、ニホンオオカミは、主に環境の変化が原因で明治38年(1905年)に奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された個体を最後に絶滅したとされている。
 現存する日本産のオオカミの剥製は、エゾオオカミが北海道大学北方生物圏フィールド科学センター耕地圏ステーション植物園に2体、ニホンオオカミが国立科学博物館、東京大学農学部、和歌山県立自然史博物館、オランダ・ライデン国立自然史博物館に各1体で計4体分である。
 ニホンオオカミの特徴には以下のようなものが挙げられる。
・イヌより大型でやせ形。推定体高は56~58cm。
・前足が比較的短く、世界最小のオオカミ。
・吻部が短く、幅広い。
 また、若狭三方縄文博物館の学芸員、小島秀彰氏によると、狛犬や絵馬などにオオカミが描かれる場合はオオカミの爪や牙が描かれており、これがイヌやキツネと区別する際の判断材料になるという。事実、オオカミの頭骨に対する切歯の大きさはイヌのそれよりも大きいという。

3.丹後のオオカミ――大川神社
 ここでは、旧丹後国地域に鎮座する大川神社について記述する。
 ⅰ.舞鶴市大川
日本における狼信仰は、縄文時代ごろの遺跡からの出土品や、三峯神社などに代表されるような比較的有名な寺社等のために、東日本の印象が強いが、西日本に無かったわけではない。その西日本のオオカミに関する信仰の一つが、京都府舞鶴市大川に鎮座する大川神社に見える。大川は周りを山に囲まれており、その周辺に家屋があり、平地の多くを田畑として利用している。この大川神社では、オオカミは神の使いとされる。
 大川神社の主祭神は保食神を主祭神として祀っているが、案内板には以下のような伝承が記されていた。

 「人皇第二十三代顕宗天皇の元年(484)3月23日、由良の浜の漁夫、野々四郎というもの、孤舟に掉さして波濤に釣糸をたれていた。夜三更に至って風さわやかに雲晴れ、清らかな月は海を離れて潮の音も静かに、漁火幽かにたゆたうとき、俄然一道の光輝がさすよと見るうち、金色の鯉に乗った霊神が左手に五穀を、右手に蚕種を携えてあらわれた。霊神のたまわく『我扶桑上古の神である。永く大川の里に鎮座してこの地方を護らん。汝すみやかに行きてこれを村長子に告げよ』と、御姿は雲霧のように消えた。野々四郎急ぎ帰り大川の里人に告げると、里の人々恭しくこの地に祀った。翌年三月二十三日このこと天聴に達し、神廟造営のご沙汰があった。同年九月二十八日神殿に移し、丁重な祭礼が行われた。それから岡田の荘は五穀よく実り、養蚕の業もますます栄えるに至った。」(野々宮神社移転予定地案内板より)

上記の伝承から、大川神社の祭神には農耕神としての性質があることがわかる。そのため、田畑を荒らし、農民にとっては害獣であるイノシシやシカを駆除する動物として、オオカミを神の使いとしたと考えられる。
また大川神社は、かつては現在よりも山寄りにあったためオオカミがよく哭いたが、現在の場所に移動したところオオカミが哭きやみ、五穀豊穣が成ったとも伝えている。現在の場所でも徹光山東山腹に階段状に社殿や拝殿が並んでおり、かつてはさらに山の奥に鎮座していたものと思われる。
大川神社には小さな石の狛犬が伝わっており、かつて獣害に悩む農民が持ち帰り、獣害を収めるために使ったという。また、その後は護符を配るようになり、石の狛犬は使わなくなったという。今回の調査では、神社側の仕事の都合により残念ながら見せて頂く事はできなかった。
 大川神社の境内には狛犬が合計4体あるが、どの狛犬も一般的な獅子狛犬の形をしており、オオカミらしさは感じられない。
写真1 

 ⅱ.宮津市須津
次に京都府宮津市須津に鎮座する大川神社について記述する。ここは、北近畿タンゴ宮津線の駅である岩滝口駅から北西方向へ徒歩3分ほどの場所にある。周囲には住宅も多いが、田畑として利用されている土地も多い。この神社には案内板等は無く、祭神も不明。小さな神社であったが、本堂は小さな山の頂上に建てられており、狛犬が明らかにオオカミであった。社名と狛犬の形からおそらく、舞鶴市の大川神社と同系列の神社であろうと思われる。また、この地域は海抜が5mほどであり、大川神社が津波避難場所とされている。
写真2 写真3 写真4

 ⅲ.舞鶴市堀
 最後に、舞鶴市堀の大川神社について記述する。
 この大川神社は、今回調査した3つの中で最も小さな神社であった。
 ここでは残念ながらオオカミに関連するものは見付けることはできなかった。しかし、鎮座する場所は前述の二社と同じく山の中であった。特に舞鶴市大川の大川神社に近い形で、それほど奥深くないところに建てられていた。しかし、祠や鳥居がまだ新しいものに見える為、大川の神社と同じくこちらも元は山の奥深くにあったものを現在の場所に移したとも考えられる。
写真5

4.若狭のオオカミ――向陽寺
 先述の丹後では、神社とオオカミが深く関わっていたが、若狭にはオオカミとゆかりある寺がある。それが現在の福井県若狭町藤井にある向陽寺である。この寺は藤井山に建てられており、そのふもとには広大な田園地帯が広がっている。
 別名狼寺とも呼ばれるこの寺には、開基である大等一祐禅師とオオカミにまつわる次のような話が伝わっている。

 大等一祐禅師が山奥で座禅中に、オオカミが現れた。そのオオカミが禅師の周りを回るため、不思議に思った禅師が「お前は私を食べに来たのか」と尋たが、オオカミは大きく口を開けて苦しそうに回るばかりだった。そこで禅師がオオカミの口の奥をよく見ると、人間の骨が刺さっており、この骨を禅師が取り除いた。そして禅師はオオカミに、これからは人間を襲わず、寺を守護するようにと諭した。それ以来オオカミは人を襲わないという。

 この話ではオオカミは明らかに人間に害をなす動物として描かれている。そのオオカミを僧侶が諭し、寺の守護としている。先述の大川神社とは少し趣が違う形である。
 向陽寺にはオオカミの位牌や、木像、爪などが現在でも伝えられており、かつてはオオカミの護符を出していたという。
 現在の向陽寺は藤井山に建てられているが、以前は現在地よりもさらに山奥にあったのだという。残念ながら土砂崩れの影響で道が閉ざされてしまい、その場所と大等一祐禅師が座禅をしていた岩には行くことが出来なかった。
写真6 写真7

5.まとめと反省と課題と
 今回は本稿を執筆するにあたり、オオカミを主題とした。2014年の歴史民俗学専攻の小浜合宿での調査と、新たにフィールドワークに行った旧丹後国地域の大川神社の調査を合わせて記述した。二つの地域で行ったフィールドワークで気づいたことが一つあった。それが、向陽寺にしても大川神社にしても、それぞれの地勢が似通っている点である。山に囲まれた地形の、その山の一つに寺社が在り、その付近に住宅が密集し、平地の大部分は田畑に利用されている。また、向陽寺での聞き取りの際に、禅宗の寺院は山のふもとが多いという話があった。しかし、向陽寺は現在地は山の中であり、またかつてはさらに山の中に在ったということであった。また、舞鶴市大川の大川神社も元は山奥に鎮座していたという。
 このことから一つの仮説を、まだ大いに不十分ではあるが立ててみた。大川神社の項でオオカミは農業の害獣を駆除することから農耕神の使いとされたのではないか、と述べたが、これは全くの逆だったのではないかとも思えてくる。というのも、もともと“山の神”としてのオオカミが信仰されており、それが日本の神々が人格神に取って代わられるようになった結果、動物の姿をした神であったオオカミ神は消え、人格神の神使となり、あるいは仏教の影響で寺院の守護とされたりして、その姿がかつての神としての名残りなのではないだろうか。また、向陽寺も大川神社も元は山の奥にあったということが大きな手掛かりになりそうである。稲作が始まるより以前か、あるいは稲作がまだ大規模でなかった頃に、山の神としてオオカミを祀るのが山の奥にあり、稲作の発展と発達に伴い山の奥よりも、田畑や住宅地に近い場所の方が便が良いために移された、という仮説はどうだろうか。
 しかしまだまだ、大いに考察の余地はあり、完全に説明もできないため今後の課題としたい。特に向陽寺のほうには山奥に神社や祭祀施設があったという資料がないため、現在の所説得力は薄い。
 また反省としては、フィールドワークの不十分さがまず第一にある。京丹波町に残るオオカミの伝承と、それの供養塔があることを知ったが、時間と金銭面の関係でそこに行くことが叶わなかった。また、同じ京丹波町の安栖里駅付近に狼石という地名があることを調べたが、こちらも実際に行くことはできなかった。
 もう一つの反省としては、資料が不十分だったことである。宮津市と舞鶴市堀の大川神社についての資料が手に入らなかった。そのため祭神も創建も不明のままである。今後、図書館等での資料調査が必要であると考えている。
 しかし、オオカミは不思議な魅力を持った動物である。調べれば調べる程、オオカミの魅力に取り憑かれてしまいそうになる。いや、むしろもうすでに憑かれてしまっているのかもしれない。向陽寺に伝わる木像は、個人が伝承を聞いて制作した物だそうで、その方もまたオオカミの魅力に取り憑かれていたのかもしれない。もしかするとオオカミを信仰した昔の人々もこの不思議なオオカミの魅力に憑かれていたのかもしれない。そのような事を考えるだけでまたオオカミゆかりの地に出掛けてみたくなる。まだまだ一般に知られていないだけで、もっとローカルな所に狼信仰の名残りが残っているように思う。そうした場所を探し出し、是非とも足を運びたいと考えている。ますますオオカミの魅力に取り憑かれてしまいそうである。
ところで、キツネ憑きにたいしてオオカミの護符が使われていたこともあったようだが、オオカミ憑きには何の護符を使用すれば良いのだろうか。
 
参考文献
『オオカミと人―自然からの護符― 展示図録』 平成24年 若狭三方縄文博物館
『向陽寺縁起 お寺のはじまりのお話』 1986年 常田幸一
『京都府の地名』 1981年 平凡社
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台湾の妖怪―魔神仔

学生たちこんなことしてます! 2014/12/27

これは台湾からの留学生が、台湾の妖怪魔神仔(モシナ)についてレポートしたものである。

台湾の妖怪―魔神仔 K.S

一、はじめに
 今回のレポートは動物怪について書くことだが、私は台湾の留学生で「魔神仔」について書くことになった。初めて、自分の国の妖怪について研究するから、詳しく書けないかもしれないが、努力する。

二、「魔神仔」とは
 「魔神仔」は台湾語でモシンアと言います。別名は墓神仔、芒神、無神仔でもある。芒神と呼ばれているのは二つの理由があったそうだ。一つは魔神仔はよく芒(ススキ)が多い所で現れる。もう一つは昔の迎春の式から変わったものと言われる。
 民俗学者の研究では、「魔神仔」は鬼とか神とかではなく、森と山の中の妖精だと認められている。噂によると「魔神仔」は素早い動きがあって、道に迷わせる悪戯をするずんぐりとした小人で、大きい音を怖がるそうだ。
 台湾各地では、大人や子供が「魔神仔」に誘拐されたという話がいくつもある。「魔神仔」に誘拐されたら、その人の親戚と家族は、まずその地の土地神や地府の神などに祈り、爆竹を鳴らしながら人を探す。被害者は無事に帰っても、しばらく精神不振で、ご馳走をされたといって、実は石とか草とかのものを食べたという。
魔神仔001

三、事例と信仰について
 妖怪データベースで台湾を引いたら、11個の文書が見つかったが、「魔神仔」に関する文書がなかった。でも、ネットで記事や妖怪に関する本などを探してみると、いくつか似たものが出てくる。まずはネットで探した新聞記事。
「日本人男性、旅行先の台湾で行方不明。
 2日、台湾旅行ツアーに参加していた日本人男性が、旅行先で行方がわからなくなった。通報を受けた警察と消防が夜を徹して捜索しているが、まだ見つかっていないということだ。

 『聯合新聞網』が伝えたところによると、行方がわからなくなっているのは鈴木さんという男性(78歳)。3泊4日の台湾旅行ツアーに1人で参加していた。2日午前、新北市瑞芳区にある黄金博物館に参観に訪れた鈴木さんは、現地ガイドに『気分が悪いので入口で休んでいます』と伝えて団体から離れ、その後行方がわからなくなったということだ。

 博物館によれば、この日、『集合時間になっても集合場所に来ていないツアー客がいる』と現地ガイドから連絡を受けたので、日本語で館内アナウンスをかけようとしたが、現地ガイドは『このあとツアー客を時間通りにレストランに連れて行かなければならない」「見つかったら迎えに来るので連絡してほしい』と伝え、次のスケジュールに向ったという。

 ガイドが所属する現地旅行会社は、夕方になっても鈴木さんの行方がわからないままだったため警察に通報。警察と消防が捜索を開始した。黄金博物館がある金爪石黄金博物園区は、19世紀に金の採掘で栄えた金鉱山にあり、海や山の景色を楽しむことができる。救助隊は鈴木さんが景色に惹かれて歩いているうちに道に迷ってしまった可能性があるとみて、付近の山道や坑道を捜索しているということだ。
(TechinsightJapan編集部 片倉愛)」
 これは2013年7月の記事。唯一日本人が被害を受けた事件である。

2013年7月4日記事
 これは後日無事発見された記事がある。
2013年7月10日記事

もう一つは、『中国民話の旅』という本から、似たものが出てきた。その本の中で、「神隠し」の部分から取ったもの。
 これは過去に、竹坪村で実際に起きた話である。
「 ある年、竹坪村の小学校の先生だった私は、生徒たちを連れてロンラン(地名)へ、ワラビ摘みに行った。帰りの途中グインダィアオミール(地名)で、休憩をとった。当時、30数人の生徒がいた。みんな歌を歌ったり談笑したりしながら、楽しく過ごした。そこで少し休んでから、呼子を吹き鳴らし、生徒を集めて村へ帰った。その時、正確に人数を数えなかった。
 村に帰り、晩御飯を食べる時になって、人数を数えたら1人が足りなかった。いなくなった子は黄顕昆という生徒で、当時、学校の近くに住んでいた。私は慌てて生徒の家に行ってみた。黄顕昆の家には祖母しかいなかった。祖母に生徒が帰ってきたかと聞いたら、祖母は、「学校の公事で、先生と一緒にワラビ摘みに行って、まだ帰ってこない。」と言った。私は急いで、岩洞の中学校に通う黄顕昆の姉黄顕英に、弟のことを知らせた。姉もすぐ竹坪に帰ってきた。
 翌日、私は黄顕英と、卵やもち米ご飯、線香などを持って、山に行って供え、「黄顕昆よ、早く帰ってきて!私たちと一緒に家に帰りましょう!」と叫んだ。これは村の老人が教えてくれた方法である。(略)7日目の夜に、いなくなった黄顕昆が家に帰ってきた。手には干したワラビを1掴み持っていた。同じ小学校の年老いた先生と私は一緒に、彼を呼んで、『一体どこに行っていたの?7日間も家に帰らず、何していたの?』と聞いた。彼は、『子供たちが、僕をあるところに連れて行き、一緒に遊んだよ。本当に楽しい所だったよ』と答えた。『この数日間、何を食べたのか』と聞くと、『食べ物は彼らがくれた。魚もあるし、肉もあるし、もち米ご飯もある。今日は彼らが村の入口まで送ってきてくれて、一緒に帰ろうと誘ったら、いやだと言って、みんな帰った。それで僕一人で帰ってきたんだ。』と答えた。
 今日に至るまで、この話はずっと謎のままである。一体何が起きたんだろうか?黄顕昆はもうすでになくなったが、彼の姉はまだ健在である。」
 また、水木しげる先生の著書『水木しげるの世界妖怪事典』の中でも、いくつか似た妖怪がある。
「(1)『樫男』は妖怪の宿り木というのがある。(中略)木に棲んでいる妖怪は、そこが山であれば山の神でもあるが、たいていは、その木の下に通る旅人などに悪戯を仕掛けたり、もっと凶悪な妖怪になると、取って食ってしまう、などということがある。
 この『樫男』も、ずんぐりとした小人で、赤い鼻をして、赤い毒キノコのような帽子をかぶり、ちょっと見た限りでは恐ろしさは感じない。(中略)日本では柳の木の下に幽霊が出るなど、よく昔から言われたものだ。また、樫の木を植えると金持ちになるという地方もあるが、樫の木を不吉なものとする地方もある(高知県など)。
(2)『ポレヴィーク』野原の支配者、野の神、と言ったもので、ロシアで、妖怪というよりは神のような霊のようなものとされている。(中略)森の精霊はよく、人間、それも特に旅人などを道に迷わせて喜ぶが、『ポレヴィーク』もそうだ。自分の気晴らしのために、行き暮れた旅人を好んで道に迷わせる。(中略)そこで『ポレヴィーク』のご機嫌を取る方法も伝えられている。地面に穴を掘って、そこに卵を二つと、すでに鳴くことができなくなってしまったような年老いた雄鶏を一羽、いけにえとしておいておく、というものだ。だが、このいけにえと供え物の献上は、人目に触れてはならない。誰も見ていない時に、こっそりと行われなければならないのである。」

四、まとめ
 「魔神仔」は小さい時からもうよく聞いている。山に迷った人のことは全部「魔神仔」のせいにしている。事件の被害者は老人の方が多かった。もしかして、年齢のせいかもしれないが、やはり「魔神仔」の仕業だと思われている。山や森など、こういう自然については人間がよく知っていないから、「魔神仔」が存在するということになったと思う。それに、台湾の山の中は墓や神祠なども多かった。でも、世界各地でいろいろな不思議現象があるから、解釈が難しいだろう。
 私は専門の研究者ではないから、詳しいことはよくわからない。だが、台湾の昔話はやはり原住民のものの方が多かった。山や自然から学んだことと、習慣で、避けなければならないことも、次々出てきた。ところで、原住民は酒が好きだ。前はテレビの番組で、原住民の神話から出てきた小人について討論していた。本当に、その近くで小人みたいな白骨や、生活したような穴が出てきたらしい。それはまた別だが、やはり何かが存在しているだろうとみんなは信じている。だから、昔の人から残された経験や習慣など、皆は思わぬうちに生活してきた。
 うまく説明していないかもしれないが、私が知った限りのことを全部書いた。今回のレポートのおかげで、もっと台湾のことを知った気がする。授業を取ってよかったと思う。


 魔神仔については林美容「モシナの諸相」という講演がある。
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谷川健一著『日本の神々』読後レポート

学生たちこんなことしてます! 2014/04/13

すぐれた入学前レポートを掲載します。読みやすくするために赤は教員のコメント、青は引用部分としています。実際のレポートでは色分けする必要はありません。

「日本の神々」 R.Y

1.はじめに 章立てしたほうが読みやすい
 この日本でははるか昔よりこの国に住まう神々を崇め、慕ってきた。たとえば太陽の神であり天皇家の氏神である天照大神などが有名であるが、その神々への信仰が始まるよりさらに昔に存在し人々の生活と大自然の中に息づいてきた「小さく」「可畏き」神々がこの日本には存在したのだ。私はその神々に谷川健一著、日本の神々を通じて注目してみようと思う。
2.可畏き神
 まずこの本の著者である谷川は冒頭で「戦後に私が一日本人として心の再建を目指して追い求めてきたのは、国家と等身大の神ではなく、幾多の風雪に耐えて日本の歴史や古い文化を今日に伝えてきた神々である。」(p.ⅱ)と述べ、さらに続けて「それらの「小さく」「可畏き」「」の中の括弧は『』二重括弧に神々がかならずや日本人の根底によこたわる世界観や生死観を解明する手引きになると考えた。」(p.ⅲ)と記している。太古の昔に自分達の先祖が築き、崇め、共に暮らしてきた自然信仰が現代を生きる我々の奥底に眠り、今なお自分達に影響を与え続けている。つまり日本人の心の起源や源流と呼べるものが「小さき」「可畏き」神々を遡ることによって見えてくるのではないだろうか。
 可畏き神々について本書で「日本書紀は、『可畏きもの』の例として虎、狼、蛇を挙げているが、畏怖の情を与えるものはもとより、それにとどまらない。意思もなく、人格もなく空中を浮遊しているような、目に見えない精霊も、「可畏きもの」の仲間であり、それらの中には、格別の意識や悪意のためというわけでなく、人に付着して幸いをもたらすものあれば、害を与えるものもあった。」(p.2)ということである。狼や蛇と言われれば想像はたやすいかも知れないが「空中を浮遊している」「目に見えない」などと言われるとあまりピンとこないかもしれない。それについては本書のp.3に「古代ではカゼは妖怪だと思われていた」と記してある。現代では科学をもって証明できる自然現象も妖怪や神の仕業とされていたのである。考えてみればどこからともなく透明な何かが飛んできて自分の体にあたり通り過ぎていくというのは何も知らない昔の人からしてみれば恐怖かもしれない。このように昔の人では原因がまったく分からない自然現象などに対する畏怖の象徴として誕生した神はかなり多いのではないだろうか。
3.原始的な神の姿
 さて、「可畏きもの」にふれたところで今度は原始的な神の姿についても触れてみようと思う。神の姿というとどうしても何か神々しい後光がさしていて空中に浮いていたりまわりにたくさんの天使が舞っていたりする人の姿をしたものを想像してしまうかもしれないが、太古の日本において神は人の姿をしてすらいないものが多い。それも源流に遡れば遡るほど人の姿をしていない。それについて本書では「原初的なカミは非人格、非意志的であってむしろタマと呼ぶにふさわしいものであった。」(p.26)と語っている。タマというと形自体が存在するのかも怪しくなってくる。強いて形を想像するとおそらくお化け屋敷に出てくるヒトダマみたいなものであるのかもしれない。そうなってくるとむしろ神というより妖精や、精霊などと呼ぶほうが現代の人々にはしっくりくるかもしれない。このタマについて本書ではイナダマというカミについてふれているので、少しこのイナダマについて見てみようと思う。
 奄美にはイナダマを招く行事があるという。その行事については本書は「田袋という広い水田を見下ろす山の中腹に、祭りの前の日に粗末な小屋をこしらえる。小屋は片側屋根の掘っ立てであり、やねには新稲の藁を敷く。新節の日の夜明けに老人から子供まで、その屋根に大勢の男たちがのる。」(p.26)という。その後神役の男二人が屋根の上に立ち田袋にむかって唱え言をする。そして祈り終わった後にみんなで唱え言をしながら一時間近くかかって小屋を揺すりつぶすのだそうだ。この一連の行事をシチャガマといい谷川は「イナダマ(稲魂)の再生をうながすために小屋をつぶすのがシチャガマの行事だろう」(p.28)と述べている。そのためシチャガマは太古の人々が稲をつかさどるイナダマを再生させ豊穣を祈る儀式であったこと推測されるのだ。ちなみにこのイナダマは非常に気まぐれな神であったらしく谷川は「ちょっと気に入らぬと他所へ行ってしうとおそれられ、ていねいなもてなしが必要である。とくに稲の穂ばらみの頃は、イナダマが稲穂に孕まれる頃で。人々は気を使って、足音を忍ばせて歩いたという。」(P.28 )と記している。こうして見るとイナダマは神がかり的な力で豊穣をもたらすのではなく蝶や蜂が花粉を運び受粉させるような役割を持っていたようにも見える。当時の神は神として確立された存在ではなく自然の一部として存在していたのかもしれない。谷川は神として確立された神と原始的で自然の一部として存在していた神を区別するためにあえてイナダマについて語るときに「神」ではなく「カミ」と表記したのだろう。こういった太古の時代は神を目上の存在として崇めるのではなく、人々が自然と神と共生して共に生きていた時代だとも言えるであろう。
4.アイヌの信仰
 さて、上記では奄美の稲をつかさどるイナダマについて記したが今度は北海道のアイヌによる信仰を見てみようと思う。アイヌによる信仰もやはりアニミズムでありそれは本州や奄美や沖縄などの南の島々より、より一層自然崇拝の色が濃かったといえるであろう。本書によると「『日本書紀』などに活写された草木石や青水沫までものを言う世界は、アイヌの世界にもっとも近い。アイヌは全てのものに霊魂を認めていた。」(p.66)とのことである。そしてアイヌのこういった信仰を知る上で最も重要になってくるのはやはり炉の火の神であろう。この炉の火の神は「アペ・フチ」(火の婆様)や「カムイ・フチ」(婆様神)と呼ばれ人間と神を仲介する役目を持っており、炉の自在鉤や炉にかけた鍋もアペ・フチの配下の神が宿ったのだという。さらに家の中の家具や着物全てに神は宿るとされていて上記で記したように全てのものに神が宿っていたとされる。こうなってくるとどこもかしこも神だらけであり家でよこになってくつろいでいるときも相当な数の神の視線を浴びることになる。そう考えるとなんとも落ちつかなそうであるがようは考え方なのであろう。たとえば私はシャワーや風呂桶なんかに裸を見られても何も感じはしない。何故ならそれは当然のことであると幼少より教わっているからである。アイヌの人々も同じような感じだったと思われ万物に霊魂はあるのは当たり前であるからして身の回りにかなりの数の神がいてもそれが彼らにとっての当然であったのだろう。そうした環境の中でアイヌの人々は我々よりもはるかに神という存在を近くに感じ慣れ親しんでいたのかもしれない。そうした中であっても彼らは自然や神に対しての尊敬や信仰は忘れてはなかったのだ。
 本書によるとアイヌの人々は漁に出るときに炉に祈りを捧げ神棚に祈りを捧げ、さらに浜辺で波打ち際の神、波の上の神、湾の神、船の各部品の神々に祈りを捧げてからようやく漁にでたのだという。さらに動物を殺すときにも例外なく丁重に儀式を行い本書では熊を殺す場合の儀式を例としてあげている。それによると「アイヌの熊狩歌は、熊狩に行って熊の穴を見つけた時、熊の穴の入り口に立って槍を構えながら歌ったものである。歌の文句はまず自分の素性を名乗り先祖代々自分の家と山の神(熊)との間に特別な友好関係があった所以を述べ、山の神がその姿である霊に返って山を降り、ふもとの村を訪ねてくれるように懇願する内容のものだった。」(p.68)と記している。このようにアイヌは自然に対しても物に対しても感謝の心を忘れず自然信仰の模範とも言える信仰を築き挙げてきた。このアイヌの信仰こそが本来の自然信仰にあるべき姿なのではないだろうか。
5.見果てぬ原郷への夢
 ここまで日本の神、および神の姿や信仰について掘り下げてきた。奄美や北海道の事例についてここに記してきたがおそらく同様の自然信仰は本州の各地で行われていたものと思われる。ただ、それは長い時間の中でカミが神へと変質し崇め、信仰する対象へ移り変わっていったことや仏教の進出などにより風前の灯となり戦前の国家神道がとどめを刺した形となったのであろう。そしてここまで自然信仰について掘り下げ日本人の心の原点とも言えるカミの時代について浮き彫りにしてきた。そこには弥生時代のはじめから「日本書紀」や「古事記」編纂される八世紀初頭までの悠久の時間の中で芽吹いた自然信仰があり、それは人々が自然と共生するために生み出した心の形であるように私は思う。本書の著者である谷川はこれらの世界を「見果てぬ原郷への夢」だと記し、それは日本人の意識の奥深くに殆ど自覚されることなく存在するとしている。私はその「見果てぬ原郷への夢」について自覚をしたときからこの世界に魅入られていたのかもしれない。私がそれを自覚したのは東日本大震災の時である。被災当時、東北地方太平洋岸地域が深い傷を負ったが、地元の人々は「人は自然には勝てないから」「自然の事だから仕方がないさ」と言いながら多数の人間が数日のうちに復興作業に着手し驚異的なスピードで作業は進んだ。私の周りの人々も悲しみ悲嘆にもくれたが皆「自然の事だから」と前を向いて今できることを淡々とこなして行ったことを覚えている。その中で私はこうした日本人の強さについて考え、それについて調べたときにその「見果てぬ原郷への夢」にたどり着いたのであろう。
たしかにそういう面があり、鋭い問題意識ではあるが、自然は多面的であるから、一概にそうとばかりは言えないという面があることも、考えておくべきだろう。
 上記に記したようにこれら日本人が現在も持ち合わせている自然に対して抱いている物は太古の昔に日本人が築き上げた自然信仰の名残であるように思えてならない。
そして、今なお日本人の心の奥底に眠る夢について、谷川は「日本人が日本の神々の原像を求めて、この夢を遡行するとき、それは意外に日本人の未来への出口を指し示すことになる」(p.ⅰ)と本書に記している。おそらくそれは、自然との付き合い方を忘れてしまった今日の人々に最も必要な未来への出口を指ししてみているような気がしてほかならない。科学が発達し自然破壊が進み、地球温暖化が叫ばれる今日だからこそ、我々は太古の日本人が作り上げたカミの世界について考察し、「見果てぬ原郷への夢」を求め 遡行するべきなのかもしれない。

参考
日本の神々 .谷川健一岩波書店、1999

 引用の仕方が適切で、読解が明快である。ただ文章の息が長すぎるので、適当に章立てをして、行もかえた方が読みやすくなる。
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小松和彦著『妖怪文化入門』読後レポート

学生たちこんなことしてます! 2013/04/20

WEB上で見やすいように教員のコメントを赤字、引用文を青字にしています。

小松和彦著『妖怪文化入門』(角川ソフィア文庫)読後レポート
Y.N

(1)はじめに
 ”妖怪”という動物でもなく、単なる漫画や絵本のキャラクターでもない不思議な存在に私は物心ついた時から惹かれてきた。様々は容姿・特性を持ち、日本に限らず世界各地にも多く伝えられている一つ一つの詳細が/、\私にとって大変魅力的だったからである。そして成長するにつれて、妖怪とはどのように生み出されてきたのかを考える様になった。
 人間の不安や畏怖、信仰と密接に関わっている彼らは、いつの世も怖い又は気味の悪いモノとして/、\人々の文化に絶えず併走してきた。それは鬼、天狗、河童といった日本古来から迷信や昔話として伝えられている妖怪だけに留まらず、各メディアが発達した現代においてもなお(発達したからこそかもしれない)、口裂け女や怪人赤マントといった妖怪伝承(都市伝説)が広範囲に流布されていることが証明しているだろう。
 小松和彦氏(氏はレポート中では不用)は本書で長い歴史の中に築かれてきた妖怪文化を辿り、妖怪を形作ってきた日本人の心性を追っている。

(2)妖怪概念
 日本人は/、\ある限られたイメージの中で妖怪』(こういう時には『二重括弧』は使わない。以後「一重括弧」に代えておく)を独自の文化にまで昇華させてきた。そもそも、妖怪という言葉はその意味があやふやであり、真の姿をなんとも捉えづらい。そこで小松は本書で(1)出来事としての妖怪」「(2)超自然的存在としての妖怪」「(3)造形化された妖怪の3つの意味領域に分けて/、\「妖怪の孕む曖昧さの解消を行っている。
 まず(1)出来事としての妖怪(現象―妖怪)は、ある種の怪異体験をした人物が感じた恐怖や不安、神秘感などから生れ出た物である。天狗倒しや小豆洗いなどの音の怪が例に挙げられる。
 たとえば、里の者が炭焼きや焼き畑等の仕事をするために山にでかけて小屋に泊まる。夜中に、近くの川から、川の音に混じって、奇妙な反復する音がする。翌日、音が聞こえたあたりにでかけて音の原因を調べたがわからない。土地の人びとのあいだでは、そのような怪音現象は小豆を洗っているときの音に似ていると言うので、「小豆洗い」と呼ばれている。あるいはまた、山奥からコーンコーンと木を伐っているような音がしたあとに木が倒れるような音が聞こえる。翌日、音が聞こえたあたりを調べてみても、木が伐られた様子がまったく見られない。これを「古杣」とか「天狗倒し」という」(P8.2←これは何の数字?行数だとのこと、不用
このように、土地の人々の体験した怪異(現象)に名付けを行い、共有化を図っていったのである。
 第二の意味領域となるのは(2)超自然的存在としての妖怪(存在―妖怪)である。多くの場合、怪異体験談は語られる際に、その怪異現象を引き起こす原因として神秘的存在が持ち出される。 ↓行カエルたとえば、「狸囃し」(という妖怪現象)は「狸」(という妖怪存在)が引き起こしたものである。すなわち、妖怪という語は怪異現象だけではなく、このような現象を引き起こした神秘的な存在(生き物)をも意味しているのである」(P9.13不用
 また、日本の神秘的存在を考える上で忘れてはならないのが、自然物には霊魂が宿るとするアニミズム(自然崇拝)だ。これが根本にあるとすると、こうした神秘的存在は日本人の神観念が黎明を迎えた頃から存在すると言っても過言ではなかろう。小松はそのアニミズム的観念の中の人格化された霊魂と諸々の霊に対する祭祀を例とし、霊魂を制御されているもの(祭祀されている超自然的存在」「制御と非制御の間をさまようもの」「制御されていないもの(祭祀されていない超自然的存在)に分けて考えている。
 前述したとおり、古来の人々は名付けによりその現象を呼称していたが、時代が過ぎるに連れて今まで妖怪現象だったものが妖怪存在となり、増殖していったのである。そのような多くの怪異現象が後に物語として語り継がれていった。そして中世になった頃、小松の言う新たな意味領域が発生する。
大さんの意味領域は(3)造形化された妖怪(造形―妖怪)である。「絵巻」という方法が開発されると、絵巻の中に鬼(『北野天神縁起絵巻』)や疫病神(『不動利益縁起絵巻』)が現れる様になった。さらに室町時代には『大江山絵巻』や『土蜘蛛草紙』などの妖怪退治をテーマとした物まで見られるようになる。後に絵師たちが絵物語の中に妖怪を描くと/、\次は木版技術が開発され多くの人々にこの造形化されたものたちが/、\広く流通した。その後、『付喪神絵詞』や『百鬼夜行絵巻』に/、\登場する道具の妖怪たち付喪神の姿が固定化され、一挙に増加。鳥山石燕の描く『画図百鬼夜行』シリーズも妖怪増加に貢献した。小松も本書で述べている通り、このような造形化は/、\妖怪を固定されたイメージにとらえてしまう事が問題であるが、妖怪の造形化は様々な領域に進出する道を開いたものでもあるのだ。しかし、現代の私達が抱く妖怪のイメージの殆どが/、\そこから来るものであることは確かである。

(3)妖怪文化研究の足跡
 本書には/、\これまでに進められてきた妖怪研究の一部が多く記載されている。この章は日本古来の妖怪に新たな角度から焦点を当てたものであるが、その全てに共通する事は/、\どれも”人間の心”が大きく関わっているということである。日本人の隠れた意識=心性が/、\長い年月を以って線を引いてきた結果がそれなのだ。人間には多様な者がおり、それぞれが多様な生活を送る。であるからこそ、その感情から様々な伝承が成り立つのだろう。
 たとえば、本書にある憑き物(P56)は「人や物に乗り移るという属性をもった霊はすべて「憑き物」なのである」(P57.12不用)とあるようにトウビョウやオサキ狐、犬神などの神霊による憑霊現象のことをいうが、その中に憑きもの筋といって特定の家庭を忌避する風習が含まれる。憑きもの筋とされた家は/、\その民俗社会(ムラ)の中で婚姻差別や誹謗中傷に見舞われた。
 そんな深刻な問題の最中、問題克服の為に憑きもの研究を行う石塚尊俊や速水保孝は/、\「憑きもの筋の中に、村での新参者又は経済的な急成長を見せたがために同じ村人の妬み、恨みを買う事になってしまった家筋の姿を見出した。この村人の心がいつしか”憑き物を使う家”というレッテルを貼り、村落全体の意識として浸透していったのだ。ここには共同体内部の経済面や家筋に纏わる部分が表されているが、これと並べて考える事ができるのが異人・生贄(P201)だ。
 ”異人”とは、ある境界から外に属する人々(定期的にムラへ訪れる山伏や六部)のことで、本書の中では共同体においての特定の家筋の盛衰と「異人殺し」の伝承が並べて説明されている。
 旅人が、とあるムラのとある家に宿を求める。その家に泊めてもらった旅人が大金を所持している事に気づいた家の主人が、その金欲しさに、旅人を密かに殺して所持金を奪う。この所持金を元手にして、その家は大尽になる。だが、殺害した旅人の祟りを受ける」(P216.6不用
上記の様な伝承を使ってムラの人々は家筋の盛衰に関する語りに/、\神秘的処理を施したのだ。
 ここにも「憑き物」同様、人間の欲深さ・特定の家筋に対する本来の醜さが垣間見える。人間の感情がいつしか神秘的力を持ちだして説明される様になる、これが伝承の有り方なのだろうか。
 ちなみに、「異人殺し」伝承のメカニズムについては小松の『異人論』(ちくま学芸文庫)に詳しい。
 その他、本書の中には我々日本人が何気なく、その存在を認知している存在についての研究論が記されている。河童(P107)(P131)天狗と山姥(P155)等がそれだ。
いずれも頭の中にイメージはあるものの、その言葉の意味を説明するとなれば誰もが頭を抱えるであろう。本書にもあったように、それらはメジャーな妖怪として姿形等のイメージが固定化されているが故にその中身を追及できないのかもしれない。
 まず、河童はカッパ、ミンツチ、メドチ、ヒョウズンボ、シバテン、エンコウ、ガラッパ、ヒョウスベ、ケンムン等(*アイヌのミンツチは神であるという)全国的にその名称が広く分布している。川辺で遭遇する特定の特徴をもつ怪異現象はカッパのカテゴリに分けられていった、と本書にもあるがやはり河童が語られる際はその特徴が重視されるようである。日本民俗学の父・柳田国男は河童の数ある特徴の中から駒引きにかつての水神信仰の痕跡、「零落した水神」像を見出した。
 全国に大きな広がりを見せる河童だが、「「河童」はその地域のなかでは、例え貧相に思えるようなイメージであっても、孤立した現象として存在しているわけではなく、その地域のさまざまな文化・社会現象や存在と直接的あるいは間接的に結びついて信じられているのである」(P129.7不用)とあるように、地域との関わりが非常に強い様である。これは河童だけに限らず、その妖怪伝承の地域性を見出す事が出来るのではないだろうか。
 「鬼」という語も、長い歴史の中で変化してきたものである。それ故に、「典型的な鬼」を考えるのが難しいのである。鬼の性格は”恐ろしいもの・残忍なもの・悪役”というのが世間一般で言う鬼のイメージだが、小松は本書の中で「こうした現代人が普通に思い描く鬼の意味とイメージを、私なりに言い直すと、「鬼」とは、日本人が抱く「人間」の否定形、つまり反社会・反道徳的「人間」として造形された概念・イメージという事になる。すなわち、「人間」という概念を成立させるために、「鬼」という概念がその反対概念として作りだされたのである」(P133・11不用)と述べている。その昔、朝廷に従わない人々を鬼として扱ったという話を聞いたり、非人道的な人物を指して○○鬼などと呼ぶ事があるが、そういった人間の裏側としての役割を「鬼」に託していたのかもしれない。
 また、雷や病などの当時では解明できない様な現象にも「鬼」が起こすものとして、その称号は与えられている。本書風にいえば、「鬼ラベル」は先の河童同様、ある種の特徴を持っていれば貼られる傾向がある様だ。鬼の場合、「頭に角がある」という特徴がある。秋田県男鹿半島のナマハゲ行事は現在でこそ「ナマハゲの鬼」であるが、本来は違うのだという。これは幕末にナマハゲ行事の調査を行った菅江真澄の記録に端を発する「鬼ラベル」なのであるという。しかし、そのラベルの下には土地の人々が行ってきた本来の/、\「ナマハゲ行事」が隠されているのだろう。
 マレビト研究を行った折口信夫は「おに」とは「祖霊」を表す語であったとし、鬼=祖霊という説を挙げている。鬼の正体について、本書で小松は次のように述べている。「鬼は、一言でいえば「恐ろしい存在」であり、「怪異」の表象化したものであった。田中貴子などがいうように、「怪異」あるいは「闇」は、「鬼」と名付けられることによって言語の世界にからめ取られ、「他者」として独立し、図像化されて、人間によって統御可能なものになっていったものであった」(P154.4不用) 上の田中が言う様に、人間の畏れは言語によって/、\その存在の形成が成されてきたのだろう。ここにも怪異の「名付け」作業が活きている。
 天狗・山姥はどちらも山の怪異におけるトップ/・\スタァである。
天狗のイメージとしては”鳶の羽をもち、鼻高く赤い顔の山伏姿”を想像するが、古来の日本では流星のことをそう呼んだそうで、『日本書紀』にも記述が残る。「「天狗」という語の初出は、『日本書紀』舒明天皇九年(637年)である。都の空に流星が現れ、雷の様な音を立てて東から西に飛び去った。人びとはこれを不吉な前兆と受け取ったが、中国から帰朝したばかりの僧が「これは流星ではなく、天狗である」と奏上したという記事である」(P160.1不用
 また、平安時代の説話集には/、\天狗は仏法の広がりを妨害する魔物として描かれており、道を外れた僧侶も/、\その天狗になると信じられていたようである。その一方で、天狗は修験道と結びつき始めていた様で、呪的な願いを聞いてくれる魔縁として「天狗祭祀」も行われていたという。全国の天狗伝承が霊山に近い場所に分布している事もあり、”天狗は山伏姿”という容姿イメージもここに繫がるものであろう。
 時代が変わると、政争に敗れた者まで天狗となり始める。保元の乱に敗れた崇徳上皇などがそれである。宗教だけにおさまらず、政治の世界にまで進出してきたのが、大きな変化だ。
つまり「天狗」は不思議な現象の説明装置として機能しているわけである。山の怪異を天狗の仕業にするということは、すでに天狗という語が登場した平安中期からの属性であったので、昔から変わらない属性といえるだろう」(P167.1不用
前述の様に、天狗のイメージ像は時代ごとに変貌してきたが、天狗は現在でも山の怪異の原因として有り続けている。「天狗倒し」など、山にまつわる怪異はある現象に基づくものが多いが、ここまで広がるというのを聞くと面白い。
 もうひとつ、山に棲むとされる妖怪に「山姥」がいる。本書には山姥は室町時代頃に文献に登場し始めたとある。山姥といえば、口が耳まで裂けた老婆=鬼女のイメージがある。地方によってその名や、姿に違いがあるが「人を取って食べるといった恐ろしい属性をもつとともに、人間が幸せや富を得るための援助者として働く好ましい属性を合わせ持った両義的存在である」(P170.15不用)とあるように、善悪両方の性質を持っている。さらに、本書にもある通りこの善悪のどちらが現れるかは民俗社会の一人ひとりの行動による様だ。
すなわち、倫理的に好ましい振る舞いをする者には富の授与者として示現するが、倫理にもとるようなことをする者には災厄授与者として示現するのである」(P171.12不用
以上の事を小松は、自身が蒐集した高知県物部村の山姥伝承を例に出して説明している。
 また、柳田国男は山姥を山の神が零落したもの、折口信夫は山の神に仕える巫女の姿を見出し、一定の時期に村々を訪れるという「マレビト論」の中でそれを説いた。こうした人々が妖怪視された結果なのかもしれないが、山姥と人間の共存する伝承もあることからそれも頷ける。
 山の怪異達は自然現象の説明装置として活躍したと同時に、人間社会を象徴している存在だったのである。

(4)最後に
 まず、本を読んで著者の考えを掴み取るという作業は難しいものであった反面、時間を掛けてじっくり読んでいる内に様々な興味が湧く面白いものでもあった。今回レポートを書いた妖怪文化は、私に民俗学への興味を引きだしてくれた古い友人でもある。今までに多くの研究者たちの残した足跡を読んでみて更に惹かれた/、\妖怪という存在を生み出す”人間の心性”それについてこれから、考えを巡らしていくというのは非常に楽しみである。
 もちろん、私は妖怪だけが民俗学と思っている訳ではない。当面の私の目標は”様々な分野に首を突っ込む事”だ。高校でも民俗学研究部として活動しているが、今回で私は未だ民俗学に近付いてするいないのだと実感した。自分の夢に恥じぬ様、もっと視野を広げて、大学での研究の日々に備えていきたい。







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名月姫伝承について

学生たちこんなことしてます! 2013/04/15

WEB上で見やすいように教員のコメントを赤字、引用文を青字にしています。

フィールドワークレポート
「大阪府豊能郡能勢町、名月姫伝承について」
T.T


地域について
書き出しは一字下げる。
今回レポートの舞台となる「大阪府豊能郡能勢町」は大阪の一番北端にあり
周りは山々に囲まれておりとても自然豊かである。冬は大阪市内に比べると寒いが夏や春、秋はとても過ごしやすく四季を感じられやすい環境である。土地柄、京都が近いことから京都の伝説などに結びつく伝承が多い。もちろんそれ以外の伝承も多く存在する。今回はそんな多くの伝承の中から能勢町の東と西をつなぐ峠の一つ名月峠(明月)にある「名月姫」をレポートしようと思う。


名月姫について


摂津国御園荘浜村(現尼崎市)に三松左衛門国春という領主があった。国春夫婦には長らく子がなかったので、大日如来に願をかけて中秋の名月の夜に女の子を得たので名月姫とよんだ。長じて容姿端麗の名月姫は能勢家包の妻となったが、ふとしたことから、平清盛に見染められて福原に引かれて行くことになった。名月姫は夫家包に貞操を守って自害し果てた。なきがらを峠に葬ったので誰というとなく名月姫(名月峠の誤りであろう)と言うようになった。」(能勢の峠道


この話は能勢に住んでいる人ならだれでも知っている話で小学校で使う地域のことが書かれている教科書になどにも載っている。だが実際、墓所を訪れたことのある人は少ないと思う。峠自体は交通量が多いものの墓所自体が山の中にあり、場所も分かりにくい。そのためか話や場所は知っているが墓自体には行ったことがないという人が多い。それに墓所にはあるいい伝えがあり、結婚を控えている人物が墓所に訪れると名月姫の祟りにあうと伝えられている。今回話を聞いた人の知り合いにも結婚前に墓所を訪れてしまい/、\けがや危ない目にあったことがある人はいるらしい。本当に墓所に訪れた事が原因かどうかはともかくこの言い伝えは名月姫をかわいそうに思った人が死んだあとも悲しまないよう墓所に結婚する人たちを近づけさせないよう名月姫がそれを見ないようにした心優しい話なのかもしれない。
津波古1     津波古2
↑名月姫墓所入口    ↑名月姫墓(左右は夫家包と父国春の供養塔)


尼崎の名月姫伝承


今回レポートの為に能勢町に住む年配の人もっと具体的に、年齢なども記すに名月姫について話を聞いたが話の内容は文献に残されていたものとあまり変わりなく逆に簡略化されていた。(出身地など)だが、話をしてくださった人からまた別の地域に伝わる「名月姫」の話を聞くことができた。それは尼崎に伝わるものである。
 「能勢家包が尼崎に訪れた時、偶然にも名月姫を見掛けて一目ぼれし、姫を能勢に連れ帰ってしまった。父国春は嘆き悲しみ、そこらじゅうを探し回った。その頃平清盛が福原を新たらしい都と定め、そこに30名の人柱を立てることになり、国春は名月姫を捜している途中に、その人柱の一人として捕らえられてしまった。家包、名月の夫婦はそのころとある老人が枕元に立ち、この事を告げる夢を見た。そのことに夫婦は驚いて駆けつけ、親子の対面を果たしたあと、村へ戻って寺を建てた。夫の死後名月姫はまた別の寺を建てそこに庵居し夫と父の供養をした。


正直この話にはとても驚いた。能勢に伝わる話とは全然というわけではないが名月姫が能勢氏に嫁いでからのその後が本当に違いすぎる。
もしかしたら土地的には近いのにこんなに話が違うのは口承により他の地域に話が行くまでに話が変わってしまったからなのだろうか?名月姫についてはあまり文献がないのでどちらが本当かはわからないが平清盛や福原などのいくつか共有点があるのでその可能性はあると思う。


まとめ


今回は名月姫の伝承について二つの話を取り上げた。一人の人物にまったく異なる二つの伝承、土地によって違うのは口承により話がいろいろな土地に広まりいろいろな人に語られるがために話が変わっていくためだからだと思う。そう考えると今回レポートにも名前が出てきた平清盛。彼の孫の安徳天皇は全国に伝承として話がたくさん残っている。これもやはりたくさんの人に話が伝わったことにより伝承が多く生まれたのだろう。ちなみに能勢にも安徳天皇についての伝承があるがそれについてはまた別の機会にレポートしようと思う。
 今回初めてレポート用のフィールドワークを行ったがなかなか難しかった。話を聞くということは相手に時間を割いてもらうというのに上手く質問ができなかったりして話のテンポはあまり良くなかったと思う。写真に至っても大きさを比較できるものが写真になかったので実際の大きさなど見る側にとって分かりにくいだろう。次回のレポートはこの反省を生かしもっと良いレポートを作りたいと思う


参考文献


著者名を前に『能勢の峠道塩田豪一著 詩画工房、出版年も記す

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